うちで、「朝から夜中まで」の、ほんとうの「劇的韻律」が、「新しい詩」が、「言葉の特殊なイメージ」が、ほんとうに「味はへる」人間が幾人ゐる。
これは、先づ翻訳者に向つて問はるべきことである。
仏国現代の戯曲家と云へば、日本で、ブリユウや、ロマン・ロオランが、持て囃されたらしい。ブリユウや、ロオランの戯曲が、一体、どこが佳いのか。佳いと思ふのは勝手だが、それを真似られては、どうにもしやうがない。
眼に一丁字なきものゝ為めに、パスカルの言も市役所の標語も何等異なる処はない。中学卒業程度の語学力ではシエイクスピイヤの文章も斎藤某の文章も何等異なる処はあるまい。大学卒業程度の語学力なら、それくらゐはわかるだらう。既に進歩である。
外国文学を味ふのは、勿論語学力だけでは駄目である。第一にその国民の生活を識ることである。識るばかりでは駄目である、やはり生活から味はつて行かなければ。
それにしても、それは決して不可能なことではない。
そして、最後の問題は、何と云つても鑑賞力の如何である。知つてゐることしか解らないやうでは駄目だ。
多くの批評家よ、読者よ、見物よ、もつとしつかりして下さい。
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