れは、文学的価値の一部をしかなさないものである。惹きつけられた処は、日本人にもわかる処か、或は、日本人としての解り方でか、何れにしても、「現はされてあるもの」と、「現はされ方」との間に漂ふ表現の妙味ではないにきまつてゐる。
 少し絶対的な物の云ひ方をし過ぎた。
 すると、結局、真似た処は、一部分に過ぎない。その部分に、日本人としての「持ち味」を加へればものになるのだが、また少数の芸術家はそれをやつてゐるが、大方の自称文学者は「西洋人にでなければわからない味」なるもの味はひ得ぬ悲しさに、そんなものがあることさへ露知らず、「味のない文学」「味の抜けた戯曲」を書き/\、日本現代劇はこれだと、見得を切つた。

「自分のもの」を作るために、外国文学を研究するなら、「われ/\日本人にはわからない味」があることを発見して、つまらない力み方などせずに、折角、それまで気がついたなら、もう一歩踏み込んで、その「味」がわかるやうに努めたらどうか。
 イプセンはもう古いなどゝいふ人間のうちで、イプセンのほんとうの芸術が、あの作品の文学的魅力が、ほんとうにわかつてゐる人間が幾人ある。
 表現派が佳いといふ人間の
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