越えてゐたと云へるのである。即ち、演劇に関する他の部門は兎も角、演技の実際的指導を如何にしたかといふ点で、少くとも、今日われわれに大きな疑ひを抱かしめる。恐らく無能な職業的俳優が自ら指導者の地位に立つたよりも、原則として無難であるべき筈だが、事実は、俳優の演技的センスを消滅させ、脚本から直接舞台の生命を嗅ぎ出す能力を衰退させたことは、何と云つても、「無理な指導的演出」の罪であつた。
 今でもなほ、若い演出家の仕事を見てゐると、俳優に対して、「その台詞で起ち上れ」とか、「甲がこの台詞を云ひ終つたら、そつちを向いて拳を挙げろ」とか云つてゐるのに対し、俳優は易々諾々、これに従つてゐる。勿論、「なるほど」と思つてやるならそれでいいが、さうでなければ可笑しなものである。そのくせ、俳優が一つの白の言ひ方を明瞭に間違へてゐても、彼は、なんとも注意しないのである。俳優に委せることは、いくらでも外にある。
 それなら、批評的演出の具体的例を挙げてみよう。断つておくが、批評も批評のしやうでは、「指導」的になることがあり、それも批評の限界に止つてゐる間は弊害がないのである。
 今ここに、甲が乙に対し、
「出
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