ある程度の信頼と尊敬を払つてゐるやうな場合、たとへ演出家としての主張は枉げないまでも、演技一般の問題に関しては、その創意を認め、更に、演出全体に至つても、時として、その意見に耳を藉すといふ態度に出ることである。これは、今日、どこででも実際に行つてゐるのだが、多くは、演出者の「意に反して」をり、甚だその矜恃を傷けられつつ行はれてゐるのだ。若き演出家よ、意を安んじて可なりである。如何なる時代にならうとも、この種演出法は、恐らく、最も重宝なものであり、正当なものであるといふ信念を忘れ給ふな。
 指導的演出とは、演出家が、俳優以上に演技的素養をもち、俳優も亦、その演出家を自己の教師なりと信ずる場合に生れる方法で、これは、演出家が、一方俳優である場合か、俳優がづぶの素人である場合かでなければ成り立たない。演技指導には、模範又は一例を示すを原則とし、俳優に非ざる演出家は、絶対に、かくの如きことは不可能だからだ。これも、わかりきつたことだが、従来、日本の新劇は、俳優にあらざる演出家の指導的演出によつて禍され、誤られ、片輪にされ、生彩を失つてしまつた事実に気がつけば、今後どうすればいいかといふことが問
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング