るなり、自分の配下に書かせるなりすればよい。個性ある俳優を使はずに、人形なり、またその名に甘んずる「奴隷」を駆り立てるがよい。かうして生れた一種の専制的演出は、必ずしも、芸術的に無意義なものでなく、その価値は、それ相当に批判されていいのだ。
 脚本によつては、演出家の「協力」なくして独自の舞台性を保ち得ないものがある。この時こそ、演出者は、自己の独創的才能によつて、脚本の生命を舞台上に躍動せしむべき機会であるが、そのために、作者の領域にまで踏み込むことは、作者の同意を得ること、必ずしも予期し得られないことはない。
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二、次に、演出法といふものは、相手の俳優次第で、これまた、伸縮自在なるべきものである。当然すぎるほど当然なことだが、俳優と演出者との脚本解釈上の一致を見た上で、その俳優の才能、経験、その他特殊な素質に応ずる演出法を採用すべきで、この場合、協議的演出ともなり、指導的演出ともなり、また批評的演出ともなるのである。
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 協議的演出とは、俳優が相当の地位にあり、演出者はその技能貫禄に対して、
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