ワしき母胎となるべきものが存在してゐることを見逃すことはできぬ。
世界の戯曲史を繙く時、われわれは、古典主義の「法則」が、かの浪漫派の馬蹄に蹂躙される事実を見、近代の黎明が、輝やかしい希望を乗せて近づき来る姿に胸を躍らせた。
そして、ある者は、今日、「戯曲文学」が、一切の「法則」から脱して、自由、且つ大胆な創造が許されてゐるものと信じてゐる。ところが、さう信じるものの手で、あらゆる試みがなされたに拘はらず、演劇そのものの進化はおろか、その行詰りが既に叫ばれてゐるのである。
舞台の因襲が演劇を堕落に導きつつあると同様、その放埓さは、現在の演劇を観衆より遠ざけつつある事実を認めなければならぬ。言ひ換へれば、劇場は、真の「演劇精神」と絶縁しつつあるのである。「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ合言葉は、大戦後の欧羅巴に於て挙げられたが、この言葉は抑も何を意味するか。私の考へでは、演劇の法則なるものを更めて吟味すべしといふことである。そして、それが若し、演劇を生かし得るものならば、再びそれを取戻せといふことである。ここで、ポオル・ヴァレリイが、定形詩について述べてゐる一句を思ひ出す。
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