大させながら、しかも常にそれをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、散文と雄弁との間には、推論と判断との間に於けると同様の相違が存することが解るのである。」
これらの句は、演劇の本質に関する思考の上に、非常に大きな示唆となるものである。
殊に、同じくアランの「演劇について」といふ論文(劇作所載)は、決して「専門的」ではないが、私の演劇論に一つの新しい道を拓いてくれたものである。序に、その中から、重要な句を拾つてみる。
「演劇は決して日常生活から拾ひ集めた感動的な、又は愉快な会話から作られるものでないことを、明かにしなければならない。」
「これは、舞踊、音楽、建築、デッサンがさうであるやうに、自己本来の方法及び条件に従つて発展するものである。」
「独白が行はれ、聴き役が現はれるといつたやうな、場所についての、つまり規則通りに行はれる邂逅に関するさまざまの約束は、決して勝手気儘なものではなく、正に反対に演劇の形式そのものに属するものであることは明白である。演劇精神がそれを課するのである。」
「すべて言葉を使用する芸術に於て、言葉の質料、即ち騒音、擦音、※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]軋音などの支配力が大きくなれば、それだけ表親は貧弱になる。演劇も亦一つの言語なのである。」
「私は対話について語らねばならない。これはドラマの主要なる、しかも亦最も明瞭な方法である。」
「劇作家は、対話、独白、及び呼び返し得ない時の歩み以外の方法を有たない。」
「時の歩みが事物に価値あらしめるのである。フィガロの結婚の最後のフィガロの長台詞にしても同様である。フィガロをしてハムレットと共に不朽ならしめるこの台詞は、演劇的躍動の完璧の範例として、あらゆる雄弁に優るものであるが、しかも雄弁とは別の方法によつてゐる。ドラマを支へるために、人物の性格や思想に頼ることが如何に誤つてゐるかが理解されたであらう。それは画家が画題によつて人を喜ばさんとするのと同じ謬ちである。実際はその反対にその画題はその描線によつて喜ばすのでなければならない。同様に演劇に於ては、思想は状況と動きによつて人の心を持つのでなければならない。何ごとかを証明せんとするドラマほど世に冷いものはないのは、この故である。」
「詩がドラマのうちにおいて容易に発展し得ることは、シェイクスピヤの洞察した通りである。その
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