舞台装置の見すぼらしさや場面の移り変りが大目に見られるのは、この鋭い詩の力によつてであり、第一、時の法則さへ尊重されてゐれば、そんなものは眼につかない筈である。しかしまた同一理由によつて、場面はいつも同一の特長のないものであつてもよく、また舞台に全く動作が欠けてゐてもかまはないことにもなるわけである。対話によるドラマの展開と、常に感じられる時の歩みが、全世界の附随し来るべきことを十分に保証するのだ。」
「身振りはどうかといふに、これは自ら言葉に従ふものである。」
「身振りや態度に変化を与へようとする幼稚な苦心ほど、まことに演劇の言葉から遠いものはない。」
「演劇の所作は時の法則に従ひ、その真実が表現されるのは継起のうちにおいてであつて、個々の部分においてではない。」
「拙劣な演劇に於いては、窮極に於ける道徳の勝利によつて、文体の欠如が救はれてゐるといふことさへできよう。」
大分長くなつたから、これくらゐで引用は止めるが、要するに、当代の二大頭脳、ヴァレリイとアランの断言を信じるとしたならば、われわれは演劇の本質を、「舞台の制約によつて高められた生命ある幻象《イメエジ》の発展的な律動」と解して差支なからう。
さう考へて来ると、これまで舞台で観、活字として読んだいろいろな戯曲が顔に浮んで来る。それらの魅力――文学的にしろ、舞台的にしろ――の悉く、「劇的」と名づくべき魅力の一切は、時間と空間の「約束」に支配されるところから生れてゐることがわかる。作者の努力は、ある障壁にぶつかつて、想像の範囲を拡大し、そこに捉へられた幻象《イメエジ》は異常な閃きと高さを示す。また、その感覚は、ある限られた境界の中で、鋭く顫へ、ぴんと張り切つてゐることを感じさせる。殊に、突発的に盛り上る「生彩に富んだ場面」は、殆んど常に、作者の思考から自然に生れたものではなく、実に、作者自身が、舞台にある「変化」を与へる必要に迫られ、即ち、「制約」の命ずるところに従つて、なんとかその瞬間の「調子」を決定しなければならぬ羽目に陥つた場合に、堆積の奥深く眠つてゐた「経験」の一つが、救ひの如く現はれた、その結果なのである。この幻象を捉へ得るか得ないか、しかも、かくの如き「経験」が蓄へられてゐるかどうかは、一に、その作者の稟質と才能によるのであらう。が、「束縛なき文体」に於ては、決して浮び出ない幻象が、「制約」
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