オ入れには必ず「理由」を与へねばならぬ。作者の「必要」は如何なる場合にも最も拙劣な理由である。従つて、何等理由を与へないことが却つてこれに優ることがある。
一、テクストたる言葉は、誘導的なる条件の下に、対話[#「対話」に白丸傍点](独白、傍白を含む)、雄弁[#「雄弁」に白丸傍点](西洋の 〔e'loquence〕 に相当するもの)、及び詩[#「詩」に白丸傍点]の三要素に限られ、「散文的」なるものの混入を許さぬ。
一、物語の主観、結構、及び、人物の対話、科などに、所謂「真らしさ」を求めることは、結局、「真実の美しさ」を求めることで、決して「現実そのもの」を再現することではない。「真らしく」するために「嘘の醜さ」に陥ることがある。大声をあげて泣くとか、人を擲るとか、舞台の上を走るとかいふことは、「真らしく」見せれば見せるほど滑稽で、「嘘の醜さ」を暴露する。畢竟、「真らしさ」とは、「本当のやうに見せかける」ことではなく、舞台の「制約」を透して、現実の精神を生かし出すことである。
一、眼に見、耳に聴くところの刻々の幻象《イメエジ》は、韻律的に、舞台の物語を運んで行くのであるが、この韻律は、戯曲の制約が作者の想像と感覚を弾ませつつ生じるので、作品に一定の色調《トオン》と、生命の躍動を感ぜしめるものである。
[#ここで字下げ終わり]
 ここで、私は仏蘭西の哲学者アランの、詩と雄弁並に散文についての数句を引用させてもらひたい。
「律動《リズム》が自らの不変のいはば機械的な歩みをあくまで肯定しつつ、しかもその事物の在り方に従つて表現し得た時には、あだかも不変の自然がわれわれの自由意志を肯定せる時の如く、その一致から宗教的な偉大さをもつ効果が生じて来る。これこそ詩の本格的秘訣である。」
「脚韻(詩の)は意味に屈従すべきでなく、また意味は脚韻に屈従すべきでないことを知るのである。しかも美しい脚韻と美しい意味との応和が喜びを与へる。反対に苦労のあとが感じられるか、又は恩恵を請ひ求めるやうなものは、すべて醜悪である。」
「雄弁の特色は時間の法則の下に思考するといふことである。ここに於ては、一つの発展は他の発展を消して行くことを忘れてはならない。演説は聴官によつて幻覚されるものだからである。」
「演説的語句の構造は方向を含められてをり、誘ひゆくものであるに対し、散文の構造は注意力を分散させ、拡
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