芝居を観る」といつて「芝居を聴く」と云はない理由を、芝居は眼に愬《うつ》たへる方が主で、耳に愬たへる方が従であるといふやうに解釈するものがあるとすれば、それはあまり芝居の歴史に疎《うと》すぎます。
 こゝで演劇史を繰返すことはできませんが、要するに、「観る」だけでもなく、「聴く」だけでもなく、強て言葉を弄すれば「眼で聴き、耳で観る」といふやうな一種の境地にわれわれを惹入れるのが演劇本来の「美」であります。かの音楽が、屡々、聴覚を通して、一つの空間的なイメーヂを喚起させることは誰でも知つてゐることです。それとは、また稍異つた意味で、舞台の上を流れる生命の諸相は、殆ど何等の媒介なしに、直接われわれの魂に触れて来るやうに感じられなければなりません。
 かういふ印象は、勿論、傑れた演劇からのみ受け得られるのではありますが、今日まで畸形的に発達した演劇のある種の様式――例へばメロドラマなど――に依て特殊な鑑賞態度を習慣づけられた観客(此言葉が証明する通り)は、之と対蹠的な関係にある演劇の様式――例へば象徴的心理劇など――には親しみが薄い結果、事件を追ふことにのみ急で、台詞《せりふ》の一語々々が醸
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