伊井大老の死」や、「息子」や、「大仏開眼」や、「生きてゐる小平次」や、「玄朴と長英」や、これら、現代の日本劇壇が生んだ評判の時代劇は、多少とも、旧劇にないものを含んではゐますが、之等は畢竟、旧劇の畑にみのり得る果実であると、私は信じてゐるのです。それで、かういふ種類の作品は、所謂新劇の将来にあまり多く寄与する処のない作品であります。
 それからまた、現代生活を取扱つてゐればなんでも新劇かと云へば、さうとも限つてはゐません。新派劇は別として、毎月発表される戯曲を見ても、これはどう演出をすれば新劇になるのかと思はれるやうな作品があります。それは何れも、芝居といふものゝ常識から一歩も脱け出てゐない作品だからです。それはたゞ、人物が類型的だと云ふに留まりません。「作者の観てゐる芝居」が、今迄何処かで観たことのある芝居の寄せ集めに過ぎないと云ふことになるのです。早く云へば、舞台的に何等創造のない芝居は、新劇とは云へません。何となれば、芝居は昔から型に陥り易いものであり、その型を踏襲することによつて旧劇が成立ち、その型を破ることによつて新劇が起つたのですから。そして、俗衆は、自分の観てゐる芝居の中
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