で、その時の印象次第で、そのイメーヂを実人生の相と見てもよし、又は実際の舞台を仮想しても、それはどうでもかまひません。
たゞ、戯曲中の人物を、作者が如何に観てゐるかといふこと、これがはつきりしないと、戯曲の価値は勿論、その面白さ、殊に、舞台の気分を捉へることができません。
戯曲を読む時、最も注意しなければならないのは、自分が嘗て見た俳優によつて、その戯曲が演ぜられてゐるといふ一種の連想が、著るしく、その戯曲の印象を変へてしまふことであります。その俳優は、誰とはつきりわからない場台でも、自分の今迄に見た一般の俳優の表現能力が、新しい戯曲を読む場合、その中の人物の白、科、その他一切の「活き方」を決定し、瀟洒たる人物が、キザな人物に感ぜられ、愉快な喜劇味が下らない洒落にしか見えないといふやうな場合がないでもありません。勿論、此の場合、作者に罪のある場合もあるのです。それだけ表現にすき[#「すき」に傍点]があるのかも知れません。しかし、読者の連想は、意外に戯曲の人物を変形するといふことは、外国劇などを読む場合、特に注意すべきことだと思ひます。何となれば、西洋の傑れた俳優が演じてこそ味のある
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