芝居を観る」といつて「芝居を聴く」と云はない理由を、芝居は眼に愬《うつ》たへる方が主で、耳に愬たへる方が従であるといふやうに解釈するものがあるとすれば、それはあまり芝居の歴史に疎《うと》すぎます。
こゝで演劇史を繰返すことはできませんが、要するに、「観る」だけでもなく、「聴く」だけでもなく、強て言葉を弄すれば「眼で聴き、耳で観る」といふやうな一種の境地にわれわれを惹入れるのが演劇本来の「美」であります。かの音楽が、屡々、聴覚を通して、一つの空間的なイメーヂを喚起させることは誰でも知つてゐることです。それとは、また稍異つた意味で、舞台の上を流れる生命の諸相は、殆ど何等の媒介なしに、直接われわれの魂に触れて来るやうに感じられなければなりません。
かういふ印象は、勿論、傑れた演劇からのみ受け得られるのではありますが、今日まで畸形的に発達した演劇のある種の様式――例へばメロドラマなど――に依て特殊な鑑賞態度を習慣づけられた観客(此言葉が証明する通り)は、之と対蹠的な関係にある演劇の様式――例へば象徴的心理劇など――には親しみが薄い結果、事件を追ふことにのみ急で、台詞《せりふ》の一語々々が醸し出すニユアンスの美を閑却し勝ちであります。
メロドラマ、必ずしも芸術的に価値のないものだとは云ひません。また、高級な芝居が、常に白《せりふ》のみを生命とするものであるとは云ひませんが、舞台の動きも、台詞の意味も、共に、それを観る眼、聴く耳の単純な効果だけに頼つてゐるものであつてはならないのです。
新しい演劇の鑑賞は、それ故、眼に見えるもの、耳に聞えるもの、さういふ区別をしないでも、丁度音楽の演奏を聴くやうな、あの虚心さ、あの注意深さ、あの心の澄まし方が必要なのです。
但し、かういふ態度の鑑賞に値する演劇は、今日まで、日本にはまだ見当らないやうです。
七、芸術的劇場
芸術的劇場とは、営利の目的を離れて専ら芸術的舞台を創造することを存在理由とする劇場を云ふので、できるだけ多くの観客を吸収して、出来るだけ興行主の懐を肥やさうとする商業劇場に対立すべきものであります。
芸術的に保たれた舞台が、十分見物を惹き得るといふのは理想で、実際は、低級な、卑俗な趣味が、最も多数者の興味を唆つてゐるわけなのです。
処が、芸術的といふ言葉は、如何にも厳粛な響きを伝へるわが国の現状か
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