物を着てゐるかと思ふと、それは古い着物を裏返しに着てゐるのです。
五、西洋劇と日本劇
西洋の劇作家は言葉を活かすことを知つてをり、日本の作家は沈黙の価値を知つてゐると、嘗て武者小路氏が云はれたのに対して、私は言葉を活かすこと以外に沈黙の価値を活かす手段があり得ないだらうと言ひました。最も言葉を活かすことが――文学に於ては――最も沈黙を利用することであるといふ証拠は、西洋の優れた作品中にいくらでも例を挙げることができます。然るに、日本の劇作家の作品中、ほんとうに沈黙の尊さを知らしめるやうな作品がどこにあります。
長田秀雄氏は、また、先月の新潮で、日本人の生活と西洋人の生活とを比較し、一つは、感情を表面に現さない生活であり、一つはすべての感情を、言葉や科《しぐさ》によつて表示する生活であるから、前者の生活から、歌舞伎式の楽劇が生れ、後者から文学的な科白《せりふ》劇が生れたのは当然である。故に、西洋の科白劇を、そのまゝ日本に遷すことは多少不自然であり、そこに新劇の行詰りを見る一原因があることを指摘してをられるが、これは慥に卓見だと思ひます。
しかし、感情を表面に現さない生活、少くとも、感情を深く内に包んで容易に色に見せないといふ生活は、過去の生活であり、現在では、その習慣は漸次失はれつゝあるのです。殊に、舞台の生活は実人生の模写ではないのですから、実際ならば口に出さないやうな文句を、舞台上の人物が喋舌つたからとて、それが、「真」を伝へてゐないとは云へますまい。科も亦同様です。要するに、実生活に於ては内に秘められ、又は、かすかにしか現されないことが、舞台では表面に現され、明かに示され、しかもなほ、それが、内に秘められ、かすかに現されてゐるやうな印象を与へ得ればいゝのです。そこが芸術なのです。モリエールの「人間嫌ひ」は、主人公が独りで喋舌つてゐるやうな芝居ですが、その主人公は如何に無口な人間のやうに書けてゐるか、これなどは、よい例だと思ひます。
日本人の生活が科白劇を生むに適してゐないといふのは、たゞ、さういふ生活が劇作家や俳優の才能を伸ばすに適しないといふだけで、又は、劇作家や俳優に霊感を与へにくいといふだけで、さういふ生活も、優れた作家、傑れた俳優の手にかゝれば、よい科白劇として表現されない筈はないのです。
六、眼で聴き耳で観る芸術
「
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