めの演劇」であります。演劇を、演劇以外のものゝ為めに愛する人々があると仮定すれば、さういふ人々は、真に演劇を愛するものとは云へません。役者を見たさに芝居に行くといふ人々さへも、それは、演劇の為めに演劇を愛するものではなく、演劇に取つては寧ろ有難くない味方であります。
それならば、「演劇の為めの演劇」とはどういふものかと云へば、演劇の本質を発揮するためにあらゆる要件を具備した演劇であります。脚本も文学の他の部門より独立し、舞台装置も絵画や建築の後を追はず、俳優も物真似ににつかず、舞踊に走らず、演劇は、一個それ自身の美を以て芸術の一様式たる実を挙げることに努力するのです。演劇でなければ表現できないものが人生のうちにあることを発見した古人の純粋な感覚を、われわれはもつことができないのでせうか。
四、劇を書くが故に劇作家なる劇作家
「詩を作るが故に詩人なる詩人」と「詩人なるが故に詩を作る詩人」とを区別した人が仏蘭西にあります。劇作家についても同じやうな区別ができさうに思はれます。
此の区別、此のニユアンスはやがて、詩の本質、劇の本質を雄弁に語らうとするものです。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」が如何に多いことでせう。そして「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」が如何に少いことでせう。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」は、劇を生む人々です。「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は劇を製造する人々です。前者の作品は一つの有機的組織であるのに反して、後者のそれは、常に機械的構成であります。従つて、後者は「味」よりも「力」を、「香」よりも「刺激」を、「光り」よりも「色」を、「弾力」よりも「硬さ」を、「密度」よりも「重さ」を尊重する傾きがあります。一つは「生き」、一つは「動」くのであります。云ひ換れば、前者は、「生命」を与へることによつて「動き」をつけ、後者は「動き」をつけることによつて、「生命」の仮感を与へようとするのです。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」中にも、「力」と「刺激」に富む作品を書いた人がないではありません。しかし、それは、常に、豊かな「味」と「香」とを伴つてゐます。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は、概ね、所謂「劇的シイン」のストツクをもつてゐます。戯曲とは、あらゆる「劇的シイン」の組合せだと思つてゐるからです。さういふ人々は、たまたま新しい着
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