ら云へば無理もないことですが、徒らに芸術的なる名の下に、ぎごちない、未完成な、時によると投げやりな舞台を公開し、苟くも芸術的演劇の観客が、退屈さうな顔をするのは不都合だと云はぬばかりに、シヤア/\としてゐるのは、慥に芸術を冒涜するものであるのみならず、これでは、永久に芸術的演劇は、商業劇場のうちに於てのみ、之を観得るといふ矛盾から脱することは出来ますまい。
 所謂芸術的演劇としてわれわれの鑑賞に堪へ得る歌舞伎劇のあるものは、実際、商業劇場の中に於て、之を観得るのみです。歌舞伎劇は営利の具たることによつて、次第に非芸術的となりつゝある事実を否むことはできません。
 そこで、私は、商業劇場以外に、例へば能楽の如く、歌舞伎劇の芸術的存在を保護するに足る純芸術的劇場の創設は、時代の急務であると思ひます。それと同時に、一般の商業劇場は、歌舞伎劇以外に新しい現代的通俗劇の樹立によつて興行成績の向上を計るべきです。新しい現代的通俗劇とは、民衆の趣味と生活に根ざす、あらゆる様式のスペクタクルです。メロドラマ可なり、ヴオオドヴイル可なり、ルヴイユウ可なり、フアルス可なり……。
 さうなつて始めて、新劇によつて立つ芸術的劇場の存在が意義あるものとなるのであります。
 今のやうな有様では、どんな劇場で、どんな俳優が演じても、新しい文芸劇でさへあれば、それは芸術的演劇と呼ばれ、劇場の格式、俳優の地位が極めて「好い加減」であります。これは、演劇の進化、芸術的純化の上に甚だ好ましくない結果を齎すことになります。

     八、新しい戯曲の読み方

 近頃は読み物としての戯曲がなかなか盛んになつて来ましたが、これらの戯曲は、何れも舞台にかけて見なくては、ほんとうの価値はわからぬなどゝ云ふ一部の人々の説は、私にはどうも受け取れません。戯曲の読めない人を標準にすれば勿論さうですが、それなら芝居のわからぬ人を標準にしたら、舞台にかけてもわからぬことになるのです。
 戯曲の読み方と云つても、別に理屈があるわけでもなく、たゞ、戯曲を読みながら、舞台のイメーヂが正しく浮ぶやうになれば、それで戯曲の読み方は卒業なのです。
 処が、劇作家は、戯曲を書く時、果して、実際の舞台をイメーヂとして描いてゐるのか、または、実人生の相を舞台といふ仲介なしに描いてゐるのか、これは問題ですが、これは、何れにしても、読者は読者
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング