で、その時の印象次第で、そのイメーヂを実人生の相と見てもよし、又は実際の舞台を仮想しても、それはどうでもかまひません。
 たゞ、戯曲中の人物を、作者が如何に観てゐるかといふこと、これがはつきりしないと、戯曲の価値は勿論、その面白さ、殊に、舞台の気分を捉へることができません。
 戯曲を読む時、最も注意しなければならないのは、自分が嘗て見た俳優によつて、その戯曲が演ぜられてゐるといふ一種の連想が、著るしく、その戯曲の印象を変へてしまふことであります。その俳優は、誰とはつきりわからない場台でも、自分の今迄に見た一般の俳優の表現能力が、新しい戯曲を読む場合、その中の人物の白、科、その他一切の「活き方」を決定し、瀟洒たる人物が、キザな人物に感ぜられ、愉快な喜劇味が下らない洒落にしか見えないといふやうな場合がないでもありません。勿論、此の場合、作者に罪のある場合もあるのです。それだけ表現にすき[#「すき」に傍点]があるのかも知れません。しかし、読者の連想は、意外に戯曲の人物を変形するといふことは、外国劇などを読む場合、特に注意すべきことだと思ひます。何となれば、西洋の傑れた俳優が演じてこそ味のある人物、場面を、現在の日本の俳優が演じるものとして、その人物、場面を頭に描かれては、実際やりきれないことが屡々あるのです。
 戯曲を読む場合、自分の今迄に見た一般俳優の表現能力が、その戯曲のイメーヂをさまざまに変形する以外に、在来の芝居といふものゝ型、詳しく云へば、台詞の言ひ方や、顔面の表情、類型的感情を現す科《しぐさ》などが、頭にこびりついてゐて、新しい傾向の戯曲を読む場合にも、その戯曲中の人物を、在来の芝居に出て来る人物の型に嵌めて解釈する誤りに陥り易いものです。
 新らしい作家は、新らしい戯曲の文体を創造します。新らしい舞台の言葉を撰んでゐます。その新らしい台詞を、在来の台詞まはしで言はれては、その台詞の感じといふものは毀されてしまふことになります。此の台詞は、かういふ風に言ふべきであるといふ一つの「案」を有つてゐなければ、ほんとうの劇作家とは云へないのです。その台詞の言ひ方は、戯曲の読者にどうして伝へ得るかゞ問題ですが、それは、やはり、読者にそれだけの想像力がなければならないといふことになるのです。我国ではまだ写実的の台詞の訓練さへ十分にできてはゐないのですが、此の方は、器用でさ
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