へあれば相当の効果を挙げ得るものであることは証明されてゐますが、例へば少しリリカルな台詞になると、もう、何等の工夫がない。工夫をするにも、どうしていゝかわからない状態です。そのリリカルな台詞を、新派式に、又は写実的に言はうとすれば、滑稽であり、歯の浮くやうであり、キザであるのは当り前です。さうして見ると、戯曲の読者は、ある程度まで演出者であり、俳優であり、殊に作者である必要さへあるのであります。
 これからの新しい戯曲を読みこなす為めには、台詞の、象徴的な、詩的な表現を味はひ得た上で、それが最も暗示的に、音楽的に、肉声化された場合の心理的効果を判断し得る能力がなければなりません。それと同時に、科白に伴ふ顔面の――眼の、瞼の、小鼻の、口元の、頤の、そして、首の傾け方の、智的な、近代的表情が生むあらゆるニユアンスに敏感でなければなりません。
 早い話が、彼の旧劇や新派劇に於て屡々用ゐられる「思ひ入れ」の如き、新しい戯曲を読む上に、その連想がどれだけ邪魔をしてゐることでせう。

     九、喜劇大に出でよ

 喜劇と云つても、悲劇に対するそれと範囲を限る必要はありません。近代に於て、所謂コメデイと称せられるものは、必ずしも「笑」の分子をのみ含んではゐません。ニイヴエル・ド・ラ・シヨツセまで遡らずとも、また悲喜劇といふやうな特殊の名称を附けずとも、近代の懐疑精神は、演劇を通しても、涙のうちの笑、笑のうちの涙に多分の詩を見出しました。
 また、単に「笑劇」(フアルス)の名で呼ばれるものゝうちにも、文学的に傑れた作品があることを発見したのは、比較的最近のことであります。「代言人パトラン先生」は中世が生んだ文学的逸品であることも先代の史家は見遁してゐます。
 しかしながら、西洋では、兎に角、昔から、喜劇が卑俗なものであるといふやうな迷信は行はれてゐないやうです。勿論高級喜劇(オートコメデイイ)の名があるくらゐですから、同じ喜劇のうちにも低級なものがあることは事実ですが、それは、人を笑はせる動機が動《やや》もすれば心情の下劣さを暴露するやうなものである場合があるからで、其点、人を泣かせる方は、同じ動機でも、かの偽善者が世にはびこる如く、巧に対手の眼を瞞着し得るのです。
 それはさうと、日本では、何時の時代からか、喜劇が芸術の本道から除外されてゐる観があります。それは、何となく下品
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