得るものでなく、日本現代の演劇と、その革新運動の諸相を通じて、最も、根本的にして、しかも全然等閑に附せられてゐる側面を、単に戯曲作家の側からのみでなく、俳優、並びに演出家の立場からも、強調し、その研究と訓練に向つて、新劇の努力を集中せしめるための一つの「提議」なのである。
演劇の本質を論ずるに当り、「言葉」が主か「動作」が主かといふ問題は、岩田氏の云ふ如く、「果てしなき論議」だとは、僕は思はぬ。「動作」が主なる演劇もあり、「言葉」が主なる演劇もあり得ると考へるのが普通であらう。また、「言葉」が心理的で、「動作」が感覚的だといふやうなことも、僕は考へてゐない。なほ、「言葉」のうちに動作を含み、「動作」のうちに言葉を含む場合が屡々あることも知つてゐる。それ故、僕は、演劇の本質を定義する文句の中に「聴官と視官に愬へるイメエジ」といふ言葉を常に用ひてゐる。
ただ、僕が、日本の現状に即した「言葉重視論」を唱へると、一方では、――いや、それは、小劇場主義者の論議であつて、大劇場を目指す演劇は、よろしく、「動作」を主とすべし――といふ説をなす人々がある。
僕は、この説を、一応、尤もだと考へる。
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