台の視覚的側面を無視したとかいふ「嗤ふべき推測」を下した如く推測してゐることだ。僕以外にそんなことをしたものがあれば別だが、これだけでは、所謂「言葉派」の主唱者が、それをやつたかの如く受け取られてもしかたがない。
ここで、はつきり云つておくが、僕は、自分の「演劇論」が、さういふ風に、誤つて理解されてゐたら、非常に残念に思ふ。僕は、未だ嘗て、「演劇の本質は言葉に在り」と云つた覚えもなく、「演劇の視覚的意義」を否認した覚えもない。
なるほど、僕は、十年以前に、戯曲論として、「対話させる術」の重要性――しかも、これは作家の修業課程として小学校であることを明記した――を説き、俳優論としては、最も基礎的な「物言ふ術」の修得を絶対必要とすることを唱へたが、その頃から、世間の一部は、僕を、「言葉至上主義者」と見做すに至り、「言葉、言葉、言葉」といふ標題の本を出すに至つて、いよいよ、動かすべからざる証拠を示したやうになつたが、この標題の意味は、焉ぞ知らん、ハムレットの懐疑的な白《せりふ》なのである。
余談はおいて、僕の主張する演劇に於ける「言葉の重要性」とは、本質論的に、「動作」の劣性をひき出し
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