但し、「動作」を主とするとは、抑もどういふことを云ふのか、その点で、僕は多大の懸念をもつてゐる。僕の「言葉重視論」は、最初にも述べた通り、「言葉を主とする演劇」を尊重せよといふのではない。「言葉」が主でも、「動作」が主でも、その何れの中にも含まれる「言語的表現」を、その正確さ、その錬磨の程度に於て、従来のレベルからずつと引上げなくてはならぬといふ意味である。それが従来の旧劇でも新派でもない、真の意味に於ける現代劇樹立の要諦であるといふ意味である。
「動作の訓練」も必要であるが、それは、先づ「言葉の訓練」が、基礎的課程を終つてからでよろしい。近代演劇に於ける「動作」の殆んどすべては、「言葉」の感覚から遊離しては、何等適切な効果を生み得ないのである。それが順序である。この順序を間違へてゐたのが、今日までの新劇であつて、現在、新劇の行詰りを来たした最大原因である。
 従来の新劇は、その出発点に於て、華々しい意図を示したに拘らず、その意図を実現するための手段を欠いてゐた。俳優は概して、台詞を諳誦するのが関の山であり、演出家は舞台の「動き」、即ち、「動作的要素」にその技術的工夫を凝らし、脚本は屡
前へ 次へ
全19ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング