するに僕は村山知義といふ一個の「芸術家」を信頼し、その全力的な仕事に十分の意義を見出すものである。
左翼的といふか、プロレタリヤ的といふか、さういふイデオロギイによる演劇の消長を、僕は今日まで、さほど気にとめてゐなかつた。芝居として面白いものもあつたやうだが、なんだか見に行く気がしなかつたのである。しかし、さういふ「運動」もあつていいとは思つてゐたし、さういふ「運動」が、思想的にも芸術的にも、立派に実を結ぶことに反対する気持は毛頭なかつたのである。が、なんとしても、「ある思想」のための芸術といふやうなものは、それ自身、芸術的に、一種の貧困を招くことは火をみるより明かであるから、わけても、未だ揺籃の時代にある日本演劇にとつて、政治的役割といふ過重の負担は、当然、一挙両損に終るであらうと見極めをつけてゐたのである。
果して――といふと語弊があるが、あれほど世間的に、又は劇壇的に注目されてゐた、数個の「革命的劇団」は、政治的にも、あつけない敗退ぶりをみせ、芸術的にも、所謂ブルジョワ劇団と歩調が揃はぬほどの舞台技術を生み出してゐないのである。
かく云ふ僕は、その結果のみをとらへて、快哉を
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