劇文化が全面的に確立するのである。
 われわれは、今、「強ひて」戯曲を書きつつある観がある。よくよくの動機がなければならぬと云つたが、それはどんな動機を指すのであらう? 言ひ換へれば、何を楽しみに戯曲を書き、また、書かうとしてゐるのであらう?
 漠然と「新劇」なるものの舞台に憧れるもの、明かに職業を標榜するものを除き、私は、「新劇の一つ手前のもの」を、一日も早く、わが日本にも作り出したいといふ望み、それが明日にでも生れ出るだらうといふ楽しみが第一であらうと思ふ。
 従つて、さういふ種類の戯曲は、高級雑誌の創作欄にも、娯楽雑誌の読み物にも、通用せぬものである。劇場の門は閉され、活字に組むことを拒まれて、どこに発表の機会があるであらう。
 例へば、最近評判になつた映画「夢見る唇」――「メロ」の如きは、この意味に於ける代表的作家ベルンスタンの戯曲を原作とするものであるが、この種の通俗現代劇《ブウルバアル》すら、日本に於ては、仮に書かれたものがあるとしても、日の目を見る可能性はないであらう。やや古くは、デュマの「椿姫」も、ベルナアルの「英語」も、パニョオルの「トパアズ」も、わが国では、生れ得な
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