、現在の舞台を度外視し、文学的に傑れた戯曲を書くものがゐてもよからうといふ意見に対しては、私はかう答へる。――さういふ現象こそ、実は、傑れた文学的才能をもつた作家が、偶々魅力ある「演劇的雰囲気」に接して、気まぐれにおれも戯曲を書いてやらうと思ひ立つた時に生じるものである――と。しかも、小説を書き、詩を書き、評論を書いてゐれば、凡そ、文学的欲望の悉くは満たされると云つていい時代に、なにを好んで、「制約」と「虚偽」に煩はされつつ、戯曲を書かうぞと、今日の作家は答へるであらう。
 現代の商業劇場が、教養ある人々を遠ざけてゐると同様に、今日の戯曲壇は、才能ある青年を振り向かせないかに見える。
 私が如何に演劇を愛するにせよ、現在の状態を以てしては、ここに諸君の席があると、大声に彼等をさしまねく勇気はない。
 そこで、私は、一つの逆説めいた云ひ方をする。曰く、「戯曲といふものは、小説家でも、詩人でも、評論家でさへも、いざ書かうと思へば書けるものである。但し、いざ書かうと思ふには、何か、書きたくなる動機がなければならん。また、書いたものが、戯曲としては価値があるかないかは、その人の稟質によつて決定
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