きたいと思ひます。
お断りをして置きますが、「民衆劇」といふ言葉は、所謂「民衆芸術」といふ言葉と同様に、その唱道者らによつて極めて明確な定義が与へられてゐるに拘はらず、多くの誤解と偏見とを全世界に散布してゐます。
民衆芸術論はこゝでする必要もありますまい。兎に角、理論の上から、論者自身は、民衆芸術そのものゝ反対者ではないことを告白して置きます。たゞ今日まで、真の民衆劇は、民衆劇の名を口にするものゝ手によつて創造されてゐない事実を指摘し、芸術は、飽くまでも芸術のために存在するといふ観念に、しばらく真理を認めて置きたいと思ひます。そして、芸術は、永遠に「芸術家のもの」であることを認めて置きたいと思ひます。こゝで「芸術家」といふのは「芸術を解するもの」の謂であることは云ふまでもありません。かういふ機会に持ち出すのも如何かと思ひますが、論者は最近、芸術的作品の絶対的価値といふものについて、可なり疑ひを抱くやうになつてゐます。芸術美とは、畢竟「作品」を通じて表はれる作家の暗示力と、「作品」によつて喚起される鑑賞者(批評家)の想像力とが、「作品」と「鑑賞する心」との間に造り上げる一つのイメージに外ならないとさへ思ふやうになつてゐます。つまり、作家がなければ作品が存在しないやうに、鑑賞者があつて、始めて芸術美そのものが生れるといふ考へ方に傾いてゐるのです。言ひ換へれば、作家は作品を媒介者として、鑑賞者と共に、鑑賞者の協力を俟つて、始めてそこに一つの芸術を創り上げるのだといふ考へ方であります。従つて厳密に云へば、制作に於て、作家は同時に鑑賞者であり、批評家であらねばならず、一度作品が発表された上は、その作品がそれ自身に芸術であることは出来ないばかりでなく、少くとも、作家と同等な鑑賞眼を有する人の「芸術的感性」に触れて、そこに一つの芸術が生れ、作品に新しい価値が与へられるのだといふ考へ方であります。例へば、作品は鏡のやうなものであります。作家は自分の顔を映しながら鏡を磨く、彼の鏡師のやうなものであります。そして、人間の顔が正しく映る鏡を作り上げる。然し、美しい顔が美しく映る鏡は、醜い顔が醜く映る鏡であります。その鏡の「佳さ」は、醜い顔の持主に取つて、遂に「永遠の呪ひ」でなければならない。そして芸術は、つまり、「鏡に映る顔」そのものなのであります。
この例は少し極端で、どうかするとわかり悪いかも知れません。もつと卑近な例を挙げれば、芸術そのものは「火」のやうなものであります。作品は「燃焼物」であり、鑑賞者は「熱」である。「燃焼物」にもいろいろあるやうに、「熱」にもいろいろある。或る「燃焼物」が、或る「熱」に会つて始めて「火」を発するやうに、或る「作品」も或る「鑑賞者」を俟つて始めて「芸術的価値」を生ずるのであります。
とんだ芸術論になりましたが、この考へ方は、演劇といふ芸術形式を決定的に否定するものゝやうに思はれるのみならず、少くとも、大劇場主義の根柢に大きな不安を投入するものであります。
しかし、これは、「美的感情」の極めて厳密な分析の上から立論した場合のことであつて、「芸術美」が「通俗美」または「自然美」から区別される一点に、それほど重きを置かないならば、演劇の芸術的存在も、固より、左程、悲観さるべきものではないのであります。それと同時に、演劇のみがもつ一種の牽引力が、偉大な舞台芸術家によつて、極度の抱擁性を与へられ、何時か大劇場主義者の夢想を実現する日が来ないとも限りません。「民衆」は当《まさ》にその日を待つべきであります。
(二)本質主義と近代主義
芸術上の近代主義(モデルニスム)とは、あらゆる既成美学への挑戦であり、伝統の破壊運動であり、新奇と自由の探究であり、客観より主観への突入であります。
未来派、立体派は既に輝やかしい歴史を有つてゐる。ダダイスムは漸次其の勢力を拡大しつゝある。表現主義の消長も社会的現象と関聯して一つの芸術的存在と認め得べきものである。その他何々主義、その他何々派、そして遂に近代主義は、これらの諸分派を一丸として、堂々、今日の芸術界を濶歩してゐるのであります。
演劇も、勿論近代主義の洗礼を受けずにはをられない。ただ種々の条件から、その歩みが遅々として目立たないだけである。その中で、兎も角も独逸の表現派、露西亜のカメルヌイ劇団、仏蘭西の「アール・エ・アクション」などは、演劇をして近代主義の運動に参加させた顕著な例であります。
演劇のみとは限らないが、此の近代主義と一見相容れないものゝ如く思はれる傾向が、これも現代の芸術界に一面の勢力を植ゑつゝある。即ち復古主義である。原始芸術の讃美である。古代並に中世への顧望である。異国殊に未開への憧憬であります。
然しながら此の傾向は、決して近代主義と相対峙すべき性質のものではなく、寧ろ流転止むことなき近代主義の気まぐれな一現象と見るべきもので、そこには、やゝ皮肉な矛盾をさへ発見するでありませう。
近代主義の立場から真に敵視すべきは、昨日の芸術に恋々たる保守的、退嬰的、微温的官学主義者であります。法則と軌範を墨守して知らず識らず因襲の虜となつてゐる似而非芸術家であります。
たゞ、われわれは、近代主義の溌剌たる魅力に心は惹かれながら、既に、その病根の憂ふべきを気づいてゐるのであります。
それは、自由と放縦、「新しさ」と「珍しさ」の混同、没批判から生じる病根であります。
幸か不幸か、演劇は、最も、「独りよがり」の許されない芸術である。それが一方、天才的飛躍を妨げる原因であると同時に、凡庸にして衒気ある野心家を自滅させることに役立つてゐるのであります。そして、聡明にして、「美を愛する」新時代の芸術家、わけても、節度と婉曲を尊ぶ仏国人の中から、進歩的なる点は、近代主義と結び、不変を求める点は、伝統主義に附くとも思はれる一部の新劇運動者が現はれたことは、寧ろ当然でありませう。
これが、前講『舞台表現の進化』並びに『演劇の本質』中で述べたジャック・コポオ一派の主張であります。
此の主張は、まだ、特別な名で呼ばれてゐないやうであります。然し、既に、立派な芸術上の一理論であることは云ふまでもありません。そしてこれを所謂近代主義からも、所謂伝統主義からも区別して考へる時、先づ「本質主義」とでもいふやうな名が許されさうに思ひますが、元来、「何々主義」と呼ぶためには、あまりに傾向的な色彩が薄く、寧ろ常道または本道そのものであるといふ感が深いのであります。
近代主義が過去の芸術を否定し、伝統主義が新奇を厭ふ、その間にあつて、古典を愛し「美の永遠性」を信じ、革命よりも完成を、因襲よりも独創を、理論よりも霊感を尊び、時代の推移と共に「変る部分」よりも、時代と国境とを超越して「変らざる部分」を作品のうちに求めようとするのであります。
かくて、舞台より流行と因襲とを排除し、演劇をして、真に本質的の美を発揮せしめ、劇場を芸術的に純化しようとするのであります。
此の運動から、劇作家としても多くの有為な詩人が生れ、文学的流派に囚はれない「明日の演劇」が、希望ある未来を示してゐるのであります。
劇団としては、巴里のヴィユウ・コロンビエ座、アトリエ座、ピトエフ一座、ブルュッセルのマレエ座、これらは何れも純然たる近代主義的傾向に走らず、而も芸術の進化に敏感な同情の眼を向けつゝ、徐ろに劇的本質の探究とその完全な舞台表現の工夫に努力しつゝあるのであります。
例へば古典の演出に際して、彼の近代主義者は、これに近代的表現を与へなければ承知しない。カメルヌイ一座がラシイヌを演じた時がさうであります。希臘神話を主題とした仏国十七世紀の悲劇を、大胆にも立体派風に演出したのであります。近代主義者が古典の演出を試みる理由が、抑も疑問でありますが、それはまあ許すとして古典悲劇は古典悲劇としての美に生きるものであることが、どうしてわからないのでせう。
また、巴里の国立劇場では、古典劇の演出に「伝統」といふものを作つてゐます。つまり、「型」に類するものである。同時に、古典の解釈は全然官学的の解釈に従つてゐる。それは芸術家の感受性を欠いたものであることは勿論である。此の「伝統」なるものは、古来の名優がそれぞれ案出した「型」に違ひないのでありますが、それはその俳優によつてのみ活かさるべき「型」であつて、今日、他の俳優がそれを真似ることは必ずしも当を得てゐるとは云へないのであります。それは俳優の個性を無視することになるからであります。これくらゐのことがどうしてわからないのでせうか。
そこで、古典の演出は、古典そのものゝ美を、演出者の優れた趣味と感性による、自由にして新鮮な表現に盛ることである。これは何人かによつて企てられなければならなかつたのであります。
これだけのことで、もう「本質主義」の特色が明かになつたことゝ思ひますが、なほ、上演目録選定の上に、見逃すことの出来ない一着眼点は、一つの作品が、思想的に又は審美学的に、劃時代的な何物かを有つてゐるために、所謂傑作と称せられてゐる場合、それは必ずしも採択の主要条件とはならないのであります。それより、同じ作者のものでも、「戯曲として完成されたもの」「戯曲としての魅力に富むもの」、つまり演劇それ自身のために好ましい要素を多分に含んでゐるものを、先づ選ばうとするのであります。何は無くとも、これだけあれば演劇になる――さういふものを、先づ見出さうとしてゐるのであります。そして、それだけを先づ、完全に舞台化しようとしてゐるのであります。
前章『演劇の本質』に於て述べたことを、また繰返すやうになりますが、「本質」といふものは、「必要」ではあるが、それだけで「十分」なものではない。従つて「本質」を他の部分から遊離して考へることは不可能でありますが、要するに、或る作品の魅力は、芸術的価値は、さう単純に決められるものではない。いろいろな点で特色を示してゐる。全体的に優劣を定め得られる二つの作品が、或る点では、却つて反対な価値批判を与へ得る場合が少くないのであります。例へば、ラシイヌの数ある作品で、最も傑れたものと定評のある『フェードル』は、或る一点、たゞその一点のみで、普通第四位または第五位に置かれる『ベレニイス』にやゝ劣つてゐると云ひ得るのであります。その一点とは、ニュアンスに富む文体の快き諧調である。渾然たる韻律の美である。この見解は、或は幾分趣味の問題に触れてゐるかもわからない。しかし『ベレニイス』の真価が、その一点で、戯曲の本質と結びつけられる時、「本質主義者」は、『フェードル』を選ぶ前に『ベレニイス』により以上の演出慾を感じるに違ひない。ここで注意すべきは、『ベレニイス』は、ラシイヌの戯曲中、最も「非劇的」な戯曲とされてゐることであります。「非劇的」必ずしも「非戯曲的」ならず、まして「非舞台的」ならずといふ、前章の論旨を裏書するために、此の例は極めて適切であると思ひます。
しかしながら、論者は一面に、近代主義的運動の功績と大なる未来とを信じ、あくまでも、その上に相当の期待をかけてゐるものであります。「演劇に革命の必要はない。古来の天才が、吾人の上に君臨してゐることを、吾人は寧ろ、光栄とするものである」といふ本質主義者の言に、論者は、やゝ片意地な、反動的な調子をさへ感じるのであります。たゞ、これは欧洲のやうな、殊に、今日の欧洲のやうな、目まぐるしい芸術的流行の渦中に於てこそ、スノビスムの旋風中に於てこそ、此の宣言は、力ある真理として響かなければなりません。
顧みて日本現代の演劇界を観ると、そこには何等の運動らしい運動はない。自ら主義を振りかざす必要は勿論ありませんが、現在の演劇をどういふ方向に導いて行かうといふ努力さへ判然と示されてゐないのであります。「より以上優れた演劇」を生むためには、今日の演劇に対して、先づ決定的な批判を下すことが必要であります。今日の演劇に対するあらゆる不満が、何等かの方法で指摘され、「明日の演劇」に与
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