へらるべき特色が、何等かの方法で暗示されてゐなければなりません。さういふ努力を払つてゐる劇芸術家が、俳優が、舞台監督が、劇場主が、劇評家がどれだけあります。そこでは、一切が模倣と踏襲である。形骸の模倣と未完成の踏襲である。そこには、近代主義の溌剌にして大胆な発見もなく、「本質主義」の堅実にして純粋な創意もなく、徒らに怠惰因循空騒ぎを以て、日に日を継ぐ有様であります。
論者が機会ある毎に、日本の現代劇を何んとかしなければならないと説く所以も亦こゝにあるのであります。
演劇論がいやに悲憤憤慨めいて来たことは恐縮です。
結論を急がなければなりません。
次章を以て、此の平凡な演劇論を終るつもりです。
結論――明日の演劇
これであらまし演劇一般に関する諸問題の研究を終つたつもりであります。
各問題について、一層細密に、一層深く、而も色々の立場からこれを論究詮議すれば、更に完全な演劇論を組立てることが出来るでせう。
例へば脚本の方面から、俳優の立場から、舞台の構造及び装置の点から、劇場の建築及び組織、観客席の設備、かういふ方面からも、それぞれ演劇の存在に触れる問題が限りなく生じて来るのであります。その一々についてはこれから機会ある毎に私見を発表するつもりでありますが、本講話は、主として演劇そのものゝ本体、芸術的存在としての演劇が、今日如何なる運命に置かれてあるか、この点を明かにし得ればそれでいゝのであります。
そこで読者諸君は、論者とともに、「今日の演劇」から、眼を「明日の演劇」に向ける必要を、感じられたことゝ思ひます。
この欲求は、やがて、日本現代劇に対する不満と結びついて、何人かの手によつて起されるであらうところの「新劇運動」――真の意味に於ける、「新劇運動」を支へる有力な根柢とならなければならない。
恐らく「明日の演劇」を――それが「理想的な演劇」を意味するにしても――たゞ一つの型に嵌めてしまふことは大きな誤りでありませう。前講『舞台表現の進化』に於て述べた通り、様々な芸術上の主義主張は、その理論に於て何れも特色ある美の表現を目ざしてゐる。独断と衒気を去り、姑息と停滞とを戒めたならば、流派そのものに優劣があるとは思はれません。
「偉大にして光輝ある演劇」の将来は、かゝつて、演劇の芸術的純化に在るものと云へるでせう。そして、その芸術的純化は、一に演劇の本質に徹した先見ある舞台芸術家の、真摯なる努力に俟たなければならない。しかも、演劇はその構成の上から、如何に天才と雖も、一人の手でこれを造り上げることは絶対に不可能な性質をもつてゐる。そこで、一つの演劇は、幾人かの協同動作といふことになる。従つて、演劇の「創造者」は一人の作家でも、一人の舞台監督でも、一人の俳優でもなく、結局一つの「劇団」なる有機的組織の精神的並びに肉体的存在であります。此の存在は、恰も一個人の存在と異るところはない。そこに一切の秘密がある。一切の希望、一切の苦悶、一切の歓喜、一切の意志と運命があるのであります。
一つの「劇団」は一個人の如く活きてゐる。――この事実は、「劇団を組織する人々」の所謂合議制を認めないのみならず、君主の専制に対する盲目的服従をも認めないのであります。
かうなると、実際に一つの劇団を統率する人格は、その劇団の首脳として、一般社会の、あらゆる組織中に見出し得ない、一個特別な職能と地位とを与へられてゐるわけである。今日まで、幾多の劇団が、大きな抱負をもつて生まれ、その抱負を実現し得ずして瓦解した、その原因の主なる一つは、「劇団の組織」に対する明確な観念を欠いてゐたためであります。
やうやくモスコオ芸術座が、此の点で理想に近い劇団であると云ふことが出来ませう。然し、一つの劇団も、一個人の如くあらゆる意味に於て、「若さ」と「力」とを失つて行きます。それと同時に、「未来」がなくなる。
一劇団存在の条件はいろいろ数へられるでせうが、それは別に研究するとして、われわれは全世界を通じて、今「明日の演劇」の曙光を認めようとしてゐる。「明日の演劇」が必ずしも「未来永劫に続く演劇」であり得ないことはわかつてゐますが、少くとも、一時代を倶に活きる世界人として、われわれもその伝統を棄てる棄てないに拘はらず、兎も角、欧洲の劇壇に動きつゝある眼ざましい傾向――演劇の芸術的進化を目標とする意義ある運動に参与する覚悟を持ちたいと思ひます。
そこで先づ、「明日の演劇」が、如何なる方向に進んで行くか、これは今までの講義が大体を暗示してゐると思ひますが、更に繰り返して云へば、先づ例の本質主義は、益々演出の上で舞台独特の魅力を発揮し、演劇の芸術的純化に強固な地盤を与へると同時に、将来の戯曲をして、新たなと云ふよりも、より一層豊富にして純粋な、「劇的美」の表現形式を発見せしめ、文学的にも完全な近代的詩劇の誕生を告げさせるに至るでありませう。
一方、演劇の独立を唱へるクレイグの理論は、文学としての戯曲を排し、俳優の人形化による様式的舞台表現に成功さへすれば、演劇の一部門として、決して生命の短かいものではあるまい。たゞ、一人の実行的天才が出るまでは、理想論として、単に、演劇研究者の一顧を値するに止まるでありませう。
文学史的進化に伴ふ演劇の将来は、今のところ、写実主義の離脱より、新しい象徴的舞台の完成へ進むべきでありますが、此の間に、本質主義の研究的努力とあらゆる近代主義の勃興とが、その発展をそれほど著しく表面には出させないでせう。しかし、暗示と綜合の観念は、本質主義の堅実な調子と、近代主義の革命的色彩とに交つて、いよいよ鮮やかな舞台表現を見せるでありませう。そしてその窮極は、大いに高踏的な、貴族的な、小劇場主義と提携するか、或は壮大な、素朴な、民衆的な大劇場主義的演劇の発生を来すでありませう。この二つの傾向は、恐らく永遠に平行して存在するに違ひない。論者も亦、それを希望するのであります。
これは単なる予想であつて、偉大なる天才の出現は、何時でも新しい時代を劃することが出来る。而もその天才は、不幸にしてその時代にはそれだけの価値を認められないといふことがある。われわれは、新しい傾向を追ふ前に、先づ自分のもの、自分の佳しとするものを作り上げなければなりません。日本の現代劇は、進む前に先づ存在せよといふ論者の主張も、そこから出発してゐる。われわれは、今浪漫的戯曲を書き、写実的戯曲を書いても、それはまだ完成への意義ある一歩たり得る時代に生れてゐる。なぜなら、日本現代劇は、何十年来、まだほんたうの芸術的作品を一つも生んでゐないと云へるからであります。西洋に於ける写実的演劇の行詰りは、「もう此の上佳いものが出ない」からである。日本では、何んと云つても、「まだ出てゐない」時代であります。現在、象徴的演劇その他の近代主義は、何れも完成された写実主義の上に築かれようとしてゐるのです。相反した傾向も、実は互に好ましい影響を与へ合つてゐる、この事は前講でも述べた通りです。西洋の写実劇が、例へば日本の現代劇になつてゐると見れば見られないこともありませんが、そして日本人として、その写実主義を脱却した新傾向を開拓することも面白いには違ひありませんが、また、一方日本の現代劇に日本人の手に成つた写実劇の傑作を残して置くことも、まんざら無意義ではないやうに思はれます。たゞ、それがためには、写実の妙境を味得して在来の作品を遥かに凌駕する体の完成品を造り出す才能と覚悟がなければなりません。
演出の点から云つても、写実的舞台、必ずしも時代遅れではない。日本では殊にさうです、調和と統一ある舞台の現実味、これは、未だ嘗て何人も完全に表現し得なかつたのであります。日本の現代劇は、演出の根本を写実に置き、その完成から出発しても決して遅くはない。徒らに様式の奇に走るのは、却つて舞台の生命を稀薄にするものであります、但しこれも亦、在来の演出から一歩も出ない現実模倣の平坦さに陥つては何んにもならない。所謂「芸の細かさ」は写実劇本来の美からはなほ数百歩の処に在る。して見ると、日本に於ける「明日の演劇」は、或は西洋に於ける「昨日の演劇」であつてもかまはないことになる。要するに、われわれは、いろいろな意味での新しい演劇――新日本の現代劇を作るために、面倒でも、もう一度基礎工事をしなければならないのです。それでなければ、われわれは、遂に世界を通じての「明後日の演劇」を有つことが出来なくなるでせう。それはつまり、われわれの「現代劇」がいつまでも西洋劇の模倣から脱し得ないといふことになる。われわれは、自分たちの手で、われわれが満足するやうなものを生み出すことが出来ないといふことになる。それでは、如何なる表面上の変化があらうと、ほんたうの進み方はしてゐないのであります。
現在の日本でこそ、演劇の本質問題が真面目に論議せらるべきではありませんか。
この講話の力点をそこに置いたのも、畢竟、研究者の注意を、先づさういふ方面に向けさせようとする論者の意図だつたのです。
既に演劇の専門的研究を進めてをられる方々には、この講話は、或は平易に失したかも知れません。
然し、いろいろの学問にそれぞれの概論があるやうに、此の講話も、云はゞ演劇概論に過ぎない。やゝシステムを無視した嫌ひはありますが、それは論者が、純然たる学者でないことゝ、演劇そのものが、どう見ても一つの学問にならないことゝに起因すると思つて頂きたい。
論者は、自分自身一個の立場を有する芸術家として、これ以上公平な物の観方はできないと思つてゐます。
不備の点は多々あると思ひますが、此の講話に関する責任は、決して回避しません。反駁なり質問なりは悦んでお受けするつもりでをります。
底本:「岸田國士全集19」岩波書店
1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
1930(昭和5)年2月8日発行
初出:演劇の芸術的純化「文芸講座 第一号」文芸春秋社
1924(大正13)年9月20日発行
舞台表現の進化(一)「文芸講座 第二号」文芸春秋社
1924(大正13)年10月10日発行
舞台表現の進化(二)「文芸講座 第四号」文芸春秋社
1924(大正13)年11月10日発行
演劇の本質(一)「文芸講座 第五号」文芸春秋社
1924(大正13)年11月30日発行
演劇の本質(二)「文芸講座 第六号」文芸春秋社
1924(大正13)年12月15日発行
演劇の本質(三)「文芸講座 第九号」文芸春秋社
1925(大正14)年2月16日発行
近代演劇運動の諸相(一)――小劇場主義と大劇場主義「文芸講座 第十号」文芸春秋社
1925(大正14)年3月7日発行
近代演劇運動の諸相(二)――本質主義と近代主義「文芸講座 第十一号」文芸春秋社
1925(大正14)年3月18日発行
結論――明日の演劇「文芸講座 第十二号」文芸春秋社
1925(大正14)年4月3日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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