ニいふものが常に陥る弊についてゞあります。
美学者は例の定義癖から「戯曲とは如何なるものか」といふ問題を解決しようと努める。然し、われわれが実際知らうと思ふのは、知る必要があるのは「優れたる戯曲とは如何なるものか」であります。
絵画とは如何なるものか、彫刻とは、音楽とは……小説とは、詩とは……かういふ問題に答へることが、さほど困難でせうか。戯曲とは……これまた、十分とは行かなくでも、正当な答案は、少し文学の道に頭を突つ込んだものから求め得るのであります。
絵といふものを全く習つたこともなく、その才能も全然持ち合せてゐないものが、或る景色なり、動物なりの「絵らしきもの」を描き、これは「絵」だと云ふ。誰がそれを「絵ではない」と断言できるでせう。それと同様に、「これは戯曲だ」と云つて示された一篇の「書きもの」を見て、「これは戯曲ではない」と云ひ得るためには、単なる形式以外、何等審美的法則を必要としないのであります。
普通用ひられてゐる「劇的」または「戯曲的」といふ言葉は、戯曲の本質とどれだけ関係があるか、これは前にも述べた通り、もう一度考へ直して見なければなりません。
「劇《ドラマ》」といふ語が、「活動」又は「動作」を意味する語から出てゐるといふ事実は希臘語の知識さへあればわかることです。前章に述べたことを、もう一度繰り返すことは避けますが、結論として「劇」の本質を「争闘」の中に見出し「争闘のない処に戯曲はない」といふ真理に到達した。そこから、あらゆる人生の危機が、人事の葛藤が、事件の発生、展開、結末が、戯曲の主題として選ばれなければならないといふ作劇術の要諦が、古来の演劇論者によつて提唱されたのであります。
従つて人生のうちには、「劇的な部分」と「劇的ならざる部分」とがある――かういふ説が生れて来る。そして表面、「極めて劇的ならざる境遇」も、その裏に、その奥底に、時として「極めて劇的な要素」が流れてゐることがある――と云つて、「劇的ならざる」而も優れた戯曲の「劇的本質」を説明しようとするのであります。
「争闘の無いところに戯曲はない」といふ言葉は、なるほど真理に近い言葉である。然しながら、「争闘の無いところに人生は無い」と云へないでせうか。更に「人生は戯曲なり」とも云へないでせうか。これは要するに、人生を観るものゝ眼である。人生のあらゆる局面、あらゆる瞬間は、小説家の眼には小説であり、詩人の眼には詩であり、劇作家の眼には戯曲である――といふことこそ、一層切実に真理を物語る言葉ではないでせうか。
人生のうちには「劇的な部分」と「劇的ならざる部分」とがある――といふ説は、一応尤ものやうでありますが、これまた、「劇的」といふ意味から決めてかゝらなければなりません。
われわれは、既に「美しい」といふ言葉について、多くの疑ひをもつてゐる。「芸術的な美しさ」は「醜いもの」のうちにさへあることを知つてゐながら、何故に、芸術的作品たる戯曲の「劇的」であるか否かを論ずる場合に、恰も一人の女が、一輪の花が、「美しい」か否かを評するやうな評し方をするのでせう。「詩的」といふ言葉が、ロマンチック乃至センチメンタルといふ語に近い意味に於て用ひられる時、此の言葉は、決して「詩」の「美しさ」を伝へる使命は果し得ない。これと同じ理由で、「劇的」といふ言葉が、若し、従来われわれが使つてゐるやうな意味に用ひられるならば、「劇的」であることは、必ずしも「戯曲」の本質的価値を高めることにはならないのであります。近代の小説が「小説的」でなくなつたと同じやうに、「劇」が、或る意味で、「劇的」でなくなる時代が、そろそろ来やうとしてゐるのではありませんか。
以上の議論は、決して所謂「劇的」な戯曲を斥けるためではありません。たゞ従来、戯曲の評価が屡々そのために誤られ、「劇的な境遇」が、戯曲の生命であるかの如き偏見を生み、所謂「劇的感動」の大小を以て、直ちに戯曲の本質的な「美しさ」が云々されがちであつた。これは演劇そのものゝ発達を致命的に阻止してゐた。これだけのことが云つて置きたかつたのであります。
今日まで、どうしてかういふ問題が等閑に附せられてゐたか、どうして、優れた劇評家や、演劇学者が、此の点を指摘しなかつたか、寧ろ不思議なくらゐであります。
恐らく、希臘劇以来、天才名匠の手に成つた戯曲が、此の「劇的」と云ふ一点で、多くは、「及第点」に達してゐるために、或は、その「劇的」なる「印象」が、「芸術的」なる「感銘」によつて高められてゐるために、その区別がはつきりつけられなかつたかも知れません。然し、近代に至つて、「メロドラマチック」といふ語が既に冷笑を含んだ意に用ひられだしたではありませんか。「劇的」といふ言葉から、「お芝居式」といふ語を区別するやうになつたではありませんか。そしてソフォクレスにも、シェクスピイヤにも、コルネイユにも、シルレルにも、イプセンにさへも「メロドラマチック」な、「お芝居式」なものを発見して、それを弁護しようとするものがもうないではありませんか。
言葉に拘泥するやうですが、こゝで論者は、所謂「劇的」といふ語から、「戯曲的」乃至「舞台的」といふ語を区別したい。さもなければ、「劇的」といふ言葉の意味を、新しく定義する必要があると思ひます――少くとも芸術を論ずる場合に。
これから、戯曲が――人生の劇的表現であるところの戯曲が――真に芸術的であり得るために、如何なる要素を具へてゐなければならないか、かういふ問題について議論を進めて行きます。
戯曲は、云ふまでもなく、文学的創作の一形式である。従つて、小説や詩と同じく、先づ、文学の審美的規範――若しかういふものがあれば――によつて律せらるべきものであります。
次に小説的表現、詩的表現に対して、戯曲的――劇的――表現といふことが考へられる。
こゝで一応注意しなければならないのは、芸術的作品たる戯曲が、文学的に優れたものでありながら、戯曲的に――劇的に――それほど価値がない、といふやうな場合があり得るのに反して、その反対に戯曲として、劇として傑出した作品が、文学的に、価値の劣つてゐるやうな場合があり得るかといふ問題が起り得るかも知れない。
かうなると、戯曲の或るものは、文学の一形式として存在を拒否して差支へないことになる。然しながら文学としての戯曲が他の文学の部門から分離する一点は、前章で述べた通り、文字の表現を通して、音、形及び運動(言葉及び動作)の表現を企図するところに在る。即ち、文字が文字そのものゝ生命から離れて、声及び動作の生命を暗示するところに在る。これは詩に於て、文字が文字としての生命を離れて、音声から成る韻律《リズム》及び諧調《ハアモニイ》の効果を企図してゐるのと少しも変りはないのであります。
たゞ、これだけの理窟はつきます。つまり、戯曲の文学的価値は、文字によつてのみ表はされる「ト書」や、「舞台の説明」の中に於ても論ぜられなければならないのであるが、これは、戯曲的――劇的――価値と少しも関係はない。そんなものは、舞台上で演出された戯曲には、文学的表現として残つてゐない。なるほど、この説には一言もない。
然し、これだけの理由で、戯曲として傑れた作品が、文学的に価値の少いものであつてもいゝなどゝは云へますまい。対話の部分にそれほど立派な戯曲的才能を示し得る作家が、「ト書」だからと云つて、好い加減な文章を綴るやうな骨惜しみはしない筈であります。
まあ、此の議論は、大した問題にしなくてもいゝ。次に、文字による表現に於て、読者に与へ得る感銘と、言葉や動作による表現を以て、観客なり、聴手なりに与へ得る感銘とは、本質的に異つたものである。故に、文字で書かれた戯曲が、たとへ、文学的に欠点が多く、価値が少くとも、上演された劇の、耳や眼に訴へる魅力はまた別もので、その点、文学に於て示されない、または、平凡にされてゐる「美しさ」が、舞台の上で、溌剌たる生気を示すことがある――といふ議論もあるにはある。
これまた、一を知つて十を知らない議論であります。何となれば、文学としての戯曲を評価する場合にも、舞台的効果即ち、声と動作の幻象をはつきり掴むことが出来なければ、その評価は戯曲評として全然権威のないものであり、従つて戯曲の全体的価値は、飽くまでも、「戯曲を感じ得る」批評家によつてのみ、定めらるべき性質のものであるからであります。
これで略々、戯曲といふものゝ本体が明かになつたと思ひます。
途中の説明が大分長くなりましたが、要するに戯曲のもつ「美」は、文学の他の種類に於ては、求め得られない、――少くとも第一義的ではない――「語られる言葉」のあらゆる意味に於ける魅力、即ち、人生そのものゝ、最も直接的であると同時に最も暗示的な表現、人間の「魂の最も韻律的な響き(動き)」に在ると云へるのであります。そして此の、「響き」は、或る時は『マクベス』の如く高く烈しく、或る時は「桜の園」の如く低く微かに、而も常に調和と統一の美感を保ちつゝ全篇を貫き流れてゐる。主題と結構と文体、此の三者の渾然たる融合がそこに在るのであります。そこで、人生の神秘な竪琴は、戯曲といふ楽譜を通して、舞台の上で奏でられる――といふ段取りになる。
三
そこで、もう少し、戯曲の本質美について云へば、或る意味に於て人生の再現と称し得べき戯曲の幻象《イメージ》は「現はされてゐる人生」そのものが如何なる人生であるかといふ興味と、「現はされてゐる人生」が如何に現はされてゐるかといふ興味とから、芸術的感銘を与へるに違ひない。そこで前者は、小説にも戯曲にも共通の興味であり、後者は小説にも戯曲にも共通な部分と、小説には必要でなく、戯曲のみに必要な部分とがある。この最後の部分に属する興味、これが戯曲の本質を形造るものであるといふわけになるのであります。
そこで、此の戯曲のみに必要な興味――即ち「劇的美」は、前章にも述べた通り、一種の心理的波動である。それは何から生れるかと云へば「語られる言葉」と「行はれる動作」との最も韻律的な排列以外のものからではない。
われわれの日常生活、たとへそれが如何に波瀾曲折に富んだものであらうと、われわれは、その中で実に平凡な、制限された、不調和な、殊にお座なりな曖昧な、時とすると虚偽に満ちた言葉を語り、動作を行つてゐる場合が多い。さういふ生活を描いて、而も、そこに或る芸術的な美を盛るためには、様々な選択、様々な説明(悪い意味でなく)、殊に多くの暗示が必要になる。処で、小説の方なら、それは作者が、自ら読者に対して、その総てを「語り」得るのであります。然るに戯曲は、作者が舞台に出てかういふ役割を演じることは例外である。従つて、それぞれの人物が語り、行ふ事柄は、それ自身に、作者が示さうとするものを間接に示してゐなければならない。つまり、われわれが日常語る言葉の裏を語らせなければならない。それはどういふことになるでせう。つまり人々が、或る場合に口にする言葉、行ふ動作、さういふものを通して、実際、表面には現はれない、又は常人には感じられないやうな「心の動き」を捉へなければならない。そして、その「心の動き」が、如何に暗示されてゐるか、そこに、戯曲の文体が有つ独特の魅力が潜んでゐる。これは「対話の呼吸」といふやうなものから一歩進んで「対話の心理的機微」に触れるのであります。此の心理的機微が、性格的興味と結びついて、人物の構成《コンポジシヨン》が生れる。これらの人物の排列と関係から主題の発展が行はれ、「魂のオーケストラ」が奏せられる。
戯曲の演出と楽曲の演奏とは、よく比較論議されますが、これは結局或る程度までの問題だと思ひます。
俳優対劇作家の関係は、演奏家対作曲家の関係よりも一層複雑で而もデリケートである。此の比較論も亦こゝで長々と述べる必要はありませんが、一口に云へば、演劇に於ては、俳優と劇作家の間に、更に作中の人物といふ一個の存在が現はれる。公衆は舞台の上から三つの異つた生命の「浸出」
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