Aまたそこに到る一つの小道が、案外文学などゝいふやうな国に通じてゐないとも限らないのであります。
そこで、さういふ面倒な問題は当分抜きにして、われわれが今日まで知つてゐる演劇といふもの、演劇と呼ばるべきもの、そのさまざまな形式について、一と通りそれぞれの本質を吟味して見ませう。
先づ順序から云つて、最も単純な感覚的要素を主とするものから、次第に、複雑な心理的要素を主とするものに進みます。お断りして置きますが、もともと此の分類のしかたも、決して純然たる科学的分類法ではないやうです。要するに常識的説明の便法に過ぎない。芸術の科学的解説といふものを信じない論者は、それで満足することにします。
扨て「感覚的要素のみより成る演劇」といふものは、理論として存在するに過ぎない。音、色、形、運動、光、なほ附け加へれば香――これらの要素が単に感覚のみに訴へる美感から如何なる形式の芸術が生れるか。これは読者諸君の想像に任せるより外はない。試みに、これ等の要素を結合排列して、或る「場面」を作つて御覧なさい。それは自然現象の成るものを聯想させる光景でなければ、立体派の絵画、未来派の音楽、ダダイストの詩を想はせる一種の舞台表現である。而もそれが心理的に何等の情緒を誘起するものであつてはならないとすると、その印象の範囲は極めて局限されることになります。
次にこれらの感覚的要素を以て、或る心理的効果、例へば喜悦、恐怖、悲哀等の感じから、進んで、なほ一層複雑な印象を与へようとする、これも亦、どの程度までそれが成功するか疑問である。殊にどの程度まで、それが芸術的であり得るかゞ疑問である。雷と風の音を出し、電光を見せ、雲らしき色と形を示して、「嵐」と題をつけても、それは「見せ物」以上の何ものでもないやうな気がする。恐怖とか凄愴とかいふ印象は与へ得るでせうが、それがどこまで芸術的感銘を伴ふかは問題であります。それならば、まだしも、単に感覚的美感に止めて置いた方が意味深長ではありませんか。
そこで「感覚的要素のみによる演劇」から「感覚的要素を主とする演劇」に遷ります。心理的要素を加味するといふことは、即ち「声」及び「動作」を要素として与へることになる。そのうち最も単純なのは純舞踊を形造る肉体又はこれに代るものゝ様式的運動である。それに「身振り」(ミミック)が加はつて複雑味を増し、「主題」が「筋」さては「物語」に発展して益々完全な心理的要素となるのであります。そこから所謂舞踊劇が生れることになる。
舞踊劇《バレエ》は、多少複雑な心理的要素を「主題」として具へてゐるのでありますが、それも、抒情詩の程度を超えてはゐない。殊に「身振り」よりも「舞踊」を主とする点に於て、殊に背景、衣裳、音曲等の感覚的要素によつて、寧ろ「主題」の有つ心理的要素を暗示する企図が主要な部分を占めてゐる点に於て、「感覚的要素を主とする演劇」の出発点に位置すべきものであります。
その「主題」が漸次複雑となつて遂に純然たる「物語」となり、「舞踊」よりも「身振り」が主となり、音曲に「歌曲」が加はつて「歌詞」を用ふる「物語」の発展に終る時、それが歌劇《オペラ》といふ形式になる。これはもう「感覚的要素を主とする演劇」といふよりも「感覚的要素が心理的要素と、その地位を争ひつゝある演劇」と云ふ、変な名前をつけなければならなくなる。「舞踊」が皆無となり、「身振り」が「科《しぐさ》」となり、「歌詞」の一部が「白《せりふ》」となる喜歌劇よりヴォードヴィルに至つて、益々此の傾向が著しくなる。
「感覚的要素が心理的要素とその地位を争ふ」といふことは、取りも直さず、印象の混乱を招き、美的効果を傷け、芸術としての純一と完全性を欠く結果になる。
そこで歌劇《オペラ》なるものゝ芸術としての存在価値は、屡々問題にされるのであります。
※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]グネルの綜合芸術説は、その当時こそ、暗夜の燈明として多くの劇芸術家を随喜させはしましたが、そして、その所説は、今日までなほ鈍感な野心家を惹き附けてはゐますが、演劇の本質問題が真面目に考へられ、「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ摯実な叫びが挙げられるに当つて、劇的効果の源泉が、感覚的要素と心理的要素の何れかを主とする統一ある表現形式に在ることを発見したのであります。
扨て、これからが「心理的要素を主とする演劇」にはひります。
歌劇《オペラ》から歌詞即ち心理的要素の大部を除いて、立派な芸術的存在となり得た舞踊劇は、確かに、「心理的要素を主とする演劇」に一大教訓を垂れたことになる。即ち感覚的要素を取り入れるのは止むを得ないとしても、その役割を過大視して、心理的要素の与へる美的効果を妨げるやうな結果に陥つてはならないといふことであります。言葉を換へて云へば、「心理的要素を主とする演劇」に於ては、感覚的要素を飽くまでも、第二義的に従属的に置かなければならない。為し得れば、それさへも、常に心理的要素の暗示に役立たしめなければならない――といふことになる。この理論は、今日劇芸術家の常識になつてゐながら、前回にも述べた通り、実際はまだ声を大にして叫ぶ必要があるのであります。
そこで「心理的要素を主とする演劇」にはどういふ形式のものが含まれてゐるかと云へば、これは、今日まで使はれて来た演劇といふ言葉の一層狭義の意味さへはつきりさせればいゝ。平易に考へて、われわれは、狭義の「演劇」といふものをかう定義することが出来る。「俳優又はそれに代るべきものを以て、或る仕組まれた物語を、言葉、身振り、又は科によつて実在化する一種の芸術である。」
この定義は、学者から抗議が出るかもわからない。背景や道具や衣裳や光線は演劇の内容ではないかと云ふかもわからない。
この抗議は簡単に片づけませう。――俳優は必ずしも裸で舞台に立つ必要はない。物語と云ふ以上、その物語の行はれる場所がわかつてゐる。その場所がどんな処か、それを知らせないで物語りが出来るか。時刻も同様である。つまり、それらの要素は、ちやんとこの定義の中に含まれてゐる。
之を要するに、かういふ定義に当て嵌る演劇の本質は、物語りの中に在る。誤解を防ぐために、もつとはつきり云へば、「物語りの仕方」にある。
此の物語は、文学として存在する或る形式のうちに求める場合と、文学の形を成さない「主題」または「筋」の中にのみ求める場合とがある。前者は、その一端を最も簡単な舞台表現である「朗読」に発し、後者は一端を台詞を用ひない人形劇又は影絵に発してゐる。その次に無言劇が来る。活動写真それ自身「タイトル」を除けば影絵と無言劇の中間に位すべきものであります。そして、此の両端を結びつけるものとして、身振りまたは科《しぐさ》をする役と、白《せりふ》、即ち台詞を云ふ役とを同時に併用する一種の形式が存在する。日本の歌舞伎劇にもそれがあります。希臘劇にもある。近代ではポオル・クロオデルの或る戯曲を、さうして演じたことがある。更に、俳優を使はないで、人形、影絵または幻燈を用ひ、その陰で台詞を云ふといふやうな演出上の試みもありました。活動写真に説明や台詞をつけるなども、此の部類に属するものと云へます。
これから漸次、物語の内容に比例して言葉の複雑な表現が要求される。そこで戯曲即ち脚本が、此の種の演劇に必要欠くべからざるものとなり、文字としての「戯曲の言葉」が、そのまゝ声又は動作としての「演劇の言葉」となり、演劇の本質を勢ひ戯曲の中に求めるといふ段取りになる。最も普通に用ひられてゐる演劇といふ言葉は、即ち、此の種の演劇を指してゐるのであります。これだけのことは、はつきり知つて置く必要がある。
「劇《ドラマ》」といふ言葉の有つ内容も、実は此処から出発して考へなければならない。然しながら、これとても、徒らに語原的詮索や、伝統的解釈に甘んぜず、進んで近代の演劇が生んだ様々の舞台表現から、もつと広い自由な「劇芸術の本質」を探究することは、必ずしも無意義ではないと思ふのです。
われわれが厳密な意味で、演劇と称へ得るものは、どの部類に属するものかと云ふ問題は、自ら、明瞭になつたと思ひます。
同じ事を繰り返すやうですが、演劇をして真に「芸術」の名に背かしめないために、われわれの求むべきものは、美術にも音楽にも舞踊にも文学にも求め得られない「演劇それ自身の美」であります。
戯曲の有つ美は、例へば空想の楽しさであります。演劇の有つ美は、例へば現実の快楽でなければならない。それほどの違ひがあるのであります。これは、空想は現実よりも美しいといふやうな哲学と何も関係はありませんが、空想よりも楽しい現実の瞬間があつてもいゝではありませんか。
文字が形になり、声になり、動作になる。これは成る程、同じものゝ異つた表はれではありますが、その印象は美の本質に於て異つたものであります。
文字による表現の方が効果の多い「もの」と、声、形又は動作による表現の方が効果がある「もの」とが、実際われわれの「生活」の中にあるのであります。戯曲は決して文字のみによる表現が目的ではない。文字によつて声、形又は動作を暗示する文学の一形式であると云つて差支へないと思ひます。そこで戯曲の言葉といふものが、小説又は詩の言葉に対して、一種特別な内容を要求する所以なのであります。然し此の文字による声と形と動作の暗示は、たとへそこに戯曲の生命があるとしても、文字が文字である以上の力を戯曲の中に求めることは不可能である。まして、文字で書かれた戯曲が、文学としての存在を主張する以上、書かるべき文字の或る限られた能力以外に、劇作家は自ら駆使し得る何ものもないのであります。
演劇は戯曲の頼りとする文字の生命から、新しく声、形及び動作の生命を創造し、魔術師の如く公衆の前に現はれる。声、形及び動作の生命、これはなるほど戯曲のどこを探してもない。たゞ声となるべきもの、形となるべきもの、動作となるべきものがあるばかりである。それをさへなほ他人の作つた戯曲の中に求めることを潔しとしない舞台芸術家は唯一つの取るべき道しかないのであります。即ち自作自演……。それも自分一人で演じられないとすればやつぱり他人の力を藉らなければならないではありませんか。総ての俳優が、自作自演を主張し、他人の作品を演じることを肯んじないならば、今度は各自が舞台の上で、自分の役を創作するより仕方がない。
動機は違ひますが、「即興劇」又は「即興的演出」といふものがあるにはあります。俳優がめいめい舞台の上で自分の役を作りながらそれを演じるのです。準備なしでこれがうまく行けば、それこそ演劇の一大革命と云へるでせう。いや、準備をしても、なかなかうまく行くものではありません。
こゝまでゞ、一と通り、演劇と呼ばるべきあらゆる舞台芸術の、本質的要素を検べて来たわけであります。
これからは最後に述べた「最も厳密な意味に於ける演劇」――即ち「戯曲の演出」――から、如何なる「美」が生れるか、その「美」は、「演劇それ自身の美」として、如何なる本質を具へてゐなければならないか、更に、戯曲の中に、如何なる状態に於て「演劇それ自身の美」が含まれてゐるか、かういふ問題について、少し述べて見ようと思ひます。
二
扨て、「戯曲の演出」を「演劇」とする最も狭義の解釈は、「演劇」なるものゝ本質を探究する上に極めて便利な手がかりを与へます。
こゝで問題を二つに分けて、「戯曲」とは如何なるものか、また「演出」とは如何なることを指すか、かういふ風に考へて見ることも出来る。然し、かういふ研究法は、文芸の一般論からはいつて行かなければならず、「戯曲」といふものを、一度舞台から引離して見るやうになる。これは、本論の目的ではないのみならず、その問題は、他に論ずる機会があると思ひますから、こゝでは、あくまでも舞台を中心として、戯曲のうちに含まれてゐる「劇的美」の本質を突き止めて見ようと思ひます。
そこで一つお断りして置かなければならないことは、「芸術学」
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