に外ならないとさへ思ふやうになつてゐます。つまり、作家がなければ作品が存在しないやうに、鑑賞者があつて、始めて芸術美そのものが生れるといふ考へ方に傾いてゐるのです。言ひ換へれば、作家は作品を媒介者として、鑑賞者と共に、鑑賞者の協力を俟つて、始めてそこに一つの芸術を創り上げるのだといふ考へ方であります。従つて厳密に云へば、制作に於て、作家は同時に鑑賞者であり、批評家であらねばならず、一度作品が発表された上は、その作品がそれ自身に芸術であることは出来ないばかりでなく、少くとも、作家と同等な鑑賞眼を有する人の「芸術的感性」に触れて、そこに一つの芸術が生れ、作品に新しい価値が与へられるのだといふ考へ方であります。例へば、作品は鏡のやうなものであります。作家は自分の顔を映しながら鏡を磨く、彼の鏡師のやうなものであります。そして、人間の顔が正しく映る鏡を作り上げる。然し、美しい顔が美しく映る鏡は、醜い顔が醜く映る鏡であります。その鏡の「佳さ」は、醜い顔の持主に取つて、遂に「永遠の呪ひ」でなければならない。そして芸術は、つまり、「鏡に映る顔」そのものなのであります。
この例は少し極端で、どうかする
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