謀である。なぜなら、例へば最近のラインハルトの如く、大劇場の舞台を、単に演出者としての芸術的欲求(純粋なものであるかどうかは別問題として)を満たすために利用してゐるものもある。「大がかりな芝居」を趣味として、或は個人的傾向として、或は少くとも、「演劇そのもの」のために主張する一派の人々は、決して、民衆劇運動に参与する必然的資格を備へてゐるとは云へないからであります。ただ結果に於ては、飽くまでも、演劇の芸術的民衆主義者であるといふことが出来ます。
此の区別をはつきりさせて置いて「大劇場主義」の批判に遷ります。
その立場の如何に拘はらず、大劇場主義は、要するに出来るだけ広い場所に、出来るだけ多くの見物を収容して、出来るだけ大規模の芝居を演じる、これが理想とする所である。それと同時に、出来るだけ多くの見物に満足を与へるやうな脚本と、演出者とを要求するのであります。ここで、芸術の根本的議論が生じる。芸術は果して民衆的なりやといふ問題であります。
これは一つ読者諸君の裁断に俟つことゝして、芸術美といふものを、芸術的作品から引離して考へることが既に空論である以上、或る芸術的作品を、「芸術的な
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