いても云へることであります。しかし、結局「小劇場向きの戯曲」を大劇場に、「大劇場向きの戯曲」を小劇場の舞台に上演することは、如何なる点から見ても不合理であり、不自然であつて、結局「小劇場」のための「戯曲」が「大劇場」のための戯曲乃至一般普通の劇場のための戯曲からさへも独立して、存在するといふわけになる。絶対的とまでは行かなくても、原則として、さういふことが許されるのであります。
 さて、それならば「小劇場主義者」の云ふ如く、純芸術的演劇は、果して、「小劇場」でなければ存在し得ないかといふ点について、しばらく、「大劇場主義者」の説に耳を傾けませう。

「大劇場主義」は「小劇場主義」の如く、全然芸術的の立場から演劇を見てゐない。寧ろ、社会的見地に立つて、演劇の使命、本領といふやうなものに力点を置いてゐるやうに思はれます。
 民衆劇運動が、大劇場主義の有力な一面を代表してゐるのを見ても解る通り、芸術の貴族的存在を認めない所謂民衆芸術の唱道者が、演劇を以て、民衆芸術の好目標とした処に、此の新運動の意義が潜んでゐるのであります。
 民衆劇運動と、大劇場主義そのものとを、全く同一視することはやゝ無
前へ 次へ
全100ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング