勿論で、此の思想さへわかれば、「室内劇」の何ものであるかは、おのづから明かになるのですが、それをなほ説明すれば、演劇といふ芸術形式から、その中に含まれがちである所の不純な分子、更に通俗的分子を取り除けば、あとには「俗衆」のために何ものも残らない。それはマラルメの詩であり、セザンヌの絵であり、ワグネルの音楽であります。高級な芸術ほど、純粋な芸術ほど、鑑賞者の資格が要求せられる。鑑賞の時と処とを選ぶ必要がある。美的印象を妨げる一切の空気を排除しなければならない。芸術家の方でも「不必要なもの」で舞台の空虚を埋めることを好まない。殊に、物質的乃至肉体的努力を最も効果的に利用するために、適度な制限を超えたくない。かういふ要求は、勢ひ少数の観客を相手とする演劇を生むのは当り前であります。
 こゝで戯曲と舞台、劇作家と演出者とを引離して考へるのは変であるが、正確に云へば、別々に論ぜらるべきであらうと思ひます。即ち「小劇場向きの戯曲」、「小劇場主義の劇作家」といふものがある筈であるし、如何なる戯曲をも「小劇場主義」の立場から、演出しようとする演出者もあつていゝのであります。このことは「大劇場主義」につ
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