ネり、神秘劇可なり、夢幻劇可なり、更に浪漫劇可なり、写実劇可なり、象徴劇可なり、表現派劇可なり、詩劇可なり、散文劇可なり、序に野外劇可なり、立廻り劇可なり、翻訳劇可なり(何といふ出鱈目な名称!)。
 たゞ、不可なるものは、劇の本質を無視したイカモノ劇であります。劇的生命のない骸骨劇であります。その中では、思想も心理も、事件も機智も、何もかも、たゞ「それだけの興味」しかない。文学にはなるかも知れません、が戯曲にはならない。演劇にはならないのであります。
 こゝで一つ、考へて見るべきことがあります。考へなくても判つてゐればこれに越したことはありません。それはこゝに一人の傑れた小説家がある。偶々戯曲を書いた。その戯曲は戯曲として大きな本質的の欠陥を蔵してゐる。こゝに多くの平凡な劇作家がある。絶えず戯曲を書いてゐる。それらの戯曲の一つを取つて見れば、平凡ではあるが兎に角戯曲になつてゐる。此の二つの戯曲が同時に上演された。上演されなくてもいゝ。此の二つの戯曲を同時に読んだ。そして、此の小説家の書いた戯曲が、劇作家の書いた戯曲よりも面白く、美しく、人を撃つ力があり、芸術的魅力に富んでゐる。かういふ
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