フイリユウジョン乃至|想像《イマジネエシヨン》と相俟つて、一つの陶酔境を実現する、そこまで行けばいゝのであります。
この演劇の本質は、所謂「気分劇」といふやうなものにのみ当て嵌めて考へられ易いのですが、それは偶々、此の種の「劇」が思想的背景とか、心理解剖の鋭さとか、事件の興味とか、機智の閃きとか、さういふ特殊な内容から遊離した戯曲の一面を代表してゐるからで、戯曲としてその本質的な部分が最も強調され、露出されてゐる結果、何人もその点以外に興味を繋ぐことが出来ないからであります。然しこれだけで「気分劇」が劇として上乗なものであり、最も芸術的なものであるといふ理由にはならない。人生の真理は決して「気分」だけによつて、物語られるものではありません。「本質」といふものは、常にそれ自身、或るものを形造る上に「必要」なものであつて、而もそれだけで「十分」なものではないのであります。本質をして優れた本質たらしむるものは、そこに「加へられるもの」であることを忘れてはなりません。此の意味で悲劇可なり、喜劇可なり、悲喜劇可なり、笑劇可なり、また思想劇可なり、心理劇可なり、社会劇可なり、諷刺劇可なり、史劇可
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