ゥら漸次、物語の内容に比例して言葉の複雑な表現が要求される。そこで戯曲即ち脚本が、此の種の演劇に必要欠くべからざるものとなり、文字としての「戯曲の言葉」が、そのまゝ声又は動作としての「演劇の言葉」となり、演劇の本質を勢ひ戯曲の中に求めるといふ段取りになる。最も普通に用ひられてゐる演劇といふ言葉は、即ち、此の種の演劇を指してゐるのであります。これだけのことは、はつきり知つて置く必要がある。
「劇《ドラマ》」といふ言葉の有つ内容も、実は此処から出発して考へなければならない。然しながら、これとても、徒らに語原的詮索や、伝統的解釈に甘んぜず、進んで近代の演劇が生んだ様々の舞台表現から、もつと広い自由な「劇芸術の本質」を探究することは、必ずしも無意義ではないと思ふのです。
 われわれが厳密な意味で、演劇と称へ得るものは、どの部類に属するものかと云ふ問題は、自ら、明瞭になつたと思ひます。
 同じ事を繰り返すやうですが、演劇をして真に「芸術」の名に背かしめないために、われわれの求むべきものは、美術にも音楽にも舞踊にも文学にも求め得られない「演劇それ自身の美」であります。
 戯曲の有つ美は、例へば空想
前へ 次へ
全100ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング