フ称へる如く、希臘では――日本に於ける如く――「芝居《テアトロン》」は「観る物」であつた故に「動作」が主で、「物語」は従である。といふ説は今日誰も信用するものがありません。現に希臘劇場で「見物席」のことを「聴聞席《オーデイトリウム》」と呼んでゐたのであります。また「俳優」といふ言葉も羅馬以来現在使はれてゐる「アクタア」即ち「動作をする人」になつたのですが、希臘では「|答へる人《ウポクリテス》」――即ち「合唱団」と問答をする役であつた。今日では「芝居を観る」といふ言葉は平気で使はれてゐる。「芝居の見物」と云つて、「芝居の聴き手」とは云はない。然しそれは、演劇の歴史的研究に、相当の準拠を与へはするでせうが、現代の演劇を論じ、その本質を究める上に、さほど、重要な根拠にはならない。まして「明日の演劇」は、歴史への反逆であるかも知れない。故に言葉の上の因襲を楯にとつて、芸術の本質を云々することは考へものである。
また「劇《ドラマ》」と云ふ言葉についても、同様の語原学的詮索から出発して、偏狭な理論を立て鑑賞上の錯誤を導くことが往々あるのであります。なるほど「劇《ドラマ》」とは「活動」或は「動作」
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