ッればなりません。
この主張は美術、音楽などの近代的傾向から多少の示唆を受けてゐることは慥かである。即ち音楽で云へば、旋律派《メロヂスト》に対する交響楽派《シンフオニスト》の運動、美術、殊に絵画の方で云へば、古典派に対する印象派の運動が、それぞれ「音」乃至「色」そのものゝ感覚的効果に、音楽又は絵画の美的要素を求め、そこに本質的の独自性を認めさせようとした、その運動こそ音楽乃至絵画から「心理的要素」たる「詩的情緒」を排除して、音楽は音楽それ自身の美に、絵画は絵画それ自身の美に、それぞれ存在価値を見出さうとするものであります。
こゝで演劇も亦音楽絵画の如く、「演劇それ自身の美」を独立させるために、その本質を感覚的要素の中に求め、「心理的要素」たる「言葉」、即ち「文学」を排除するのが当然だ、かう云ふ議論が生れたのであります。
一寸面白い議論に違ひない。然し、この議論には矛盾がある。なぜならば若し演劇から「文学的要素」を排除し得たとしても、その所謂「感覚的要素」と称へるものは、果して、美術又は音楽の領域を犯してはゐないでせうか。
こゝまで考へて来れば、演劇それ自身の美は、必ずしもこれら
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