フ音楽家、今日までの舞踊家、今日までの舞台監督、それらのものを打つて一丸としたやうな舞台芸術家が、たとへ出るとしても、そして、その人間の頭一つから、一つの舞台が創造されるのはよいとしても、さういふ芸術家が生れるまで、今日の演劇はどうすればよいのですか。クレイグ自身も、さういふ理想論を唱道する傍ら、在来の脚本を上演してゐる。なるほど、彼の理論は、出来るだけ生かしてはゐる。然し、彼がシェクスピイヤなりミュッセなり、マアテルランクなりの戯曲を解釈するに当つて、聊か衒学的な独断が交つてはゐないでせうか。それらの作品の調子を一つ二つの色で示さうとするが如きは、甚だ児戯に類することであります。殊に、シェクスピイヤの人物、ミュッセの人物を演ずる俳優が、舞台監督の意志のみによつて動く人形であればいゝなどゝ云つても、それは一笑に附せらるべき暴言であります。
在来の脚本を上演する――即ち戯曲の存在を否定し得ない現在の状態に於て、演劇に何ものかを与へようとすれば、それは勢ひ演劇の本質を戯曲のうちに見出すより外はないのであります。戯曲とは、取りも直さず、劇的詩であります。主題と結構と文体――この三者の融合か
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