ニは無理である。また、どの俳優にもさういふことをされては危険でしやうがない。而もこれと同じ危険は、他の動機から、常に、従来の演劇を脅かしてゐるのであります。それは云ふまでもなく、俳優の利己的感情の満足、言ひ換へれば、俳優某の技芸を誇らんがために、その役に不必要な粉飾を施すことであります。甲俳優に見物の注意を集中せんがために、乙丙等の俳優を或る程度まで犠牲にすることであります。要するに、俳優の、それ自身に独立性のない技芸を至上のものとして、脚本をそのプレテキストに使ふことであります。これが古今を通じて、演劇の病根であると云へるでせう。然し、このことは、あまり多く論議されました。今では、このことを知らない俳優は一人もないでせう。そして事実は……かう考へて来る時、演劇の前途は正に暗澹たるものであります。
俳優の芸術は、音楽演奏者のそれの如く、瞬間的のものである。その芸術は、その名とともに後世に伝へることができないといふ一種の悲哀がある。この悲哀から生れる焦慮は、蓋し、他の芸術家の想像し得ないものでありませう。そこから、舞台に立つ俳優の心理は、小説家が原稿紙に向ふ時と、自ら大きな距りが出来なくてはならない。俳優が、如何なる場合と雖も、芸術家の創作的心境を静かに保ち続けることは殆ど不可能であります。小説家が原稿の註文を受けてから、その批評や世論を直接間接に耳に挟んで一喜一憂する、それまでのあらゆる人間的感情――それはしばしば芸術家の心境と相容れない――さういふものを、俳優は、一時に舞台の上で感じると云つても差支へないのであります。かういふ不純な心持を制御、排除して、舞台に真の芸術的雰囲気を作り得る俳優こそ、演劇の芸術的純化に欠くべからざる俳優であります。
その上もう一つ、俳優の芸術が有つ大きな弱点は、一度舞台に立てば最早推敲を許さないといふことであります。そこにまた、或る魅力もある。――丁度、即興詩のやうな。しかし、人間の肉体は、精神は、瞬間瞬間その状態を変じつゝあるのであります。昨日出来たことが、今日は出来ないことがある。その場合に、明日まで待つて見るといふことが出来ない。従つて、俳優は常に自分の技芸に絶対的信頼をもつことが出来ない。殊に不便なのは、自分のやつてゐることに対し常に適確な批判を下し得ないことであります。自分ではちやんとさうやつてゐるつもりでゐながら、実際は
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