ウうなつてゐないことがある。これまた、俳優芸術に完全性が欠ける理由であります。勿論公演に先立つて、十分の用意はするのであるが、人にも見て貰ふのであるが、それをそのまゝ舞台の上で実行してゐるかどうかは、或る程度までしか自分にはわからない。非常に厳密な論じ方のやうであるが、高級な芸術ほどそれ自身に、そこまでの完全性を備へてゐなくてはなりません。
 かういふ見方から云へば、演劇は、たとへ優れた脚本を、優れた俳優が演出するとしても、どこかに、また、ある分量の欠陥、不備、不純さを免れないものだと云へるのであります。さうなると、他の芸術が、勿論理想に於てゞはあるが、完璧であり得るに比して、演劇は理想としても、さういふことは望まれない。まして俳優以外に、色々な物質的条件が附き纏つてゐます。舞台装飾、見物席の設備、さういふものが演劇鑑賞上に、どれだけ不幸な影響を与へてゐるかは、思ひ半ばに過ぎるのであります。

       舞台監督について

 俳優が、単独に自分の技芸を規正することが困難であるところから、殊に、俳優相互の関係から成り立つ舞台効果に相当の注意を払はなければならないところから、そしてなほ、舞台全体の印象を統一指向する必要から、音楽演奏に於ける指揮者《コンダクター》の役目を果す一人の人間を定めることは、恐らく、演劇始まつて以来の習慣であらうと思ひます。それが、近代に至つて、益々その役目の重大さが認められるやうになり、中には、舞台監督が脚本演出の全責任を負ふべきだと主張するものさへ出来て来たのであります。そして、舞台監督万能の風潮は、一時、演劇の将来を危ぶませるまでに昂進したのであります。
 総て芸術上の理論《セオリー》などゝいふものは、それ自身には、常に一つの美しい真理と、新しい香りとを含んではゐるが、その実行に当つて、動《やゝ》もすれば極端な反動的偏見を曝露して、自縄自縛に陥り、美の本質を離れて衒学的な奇異を弄ぶに至るものであります。
 舞台監督万能論は、かくて、今日の演劇に――所謂、芸術的演劇に――一種の致命的傷痍を与へたと云へるばかりでなく、明日の演劇が、また動もすれば、俳優万能論に結び附かうとする恐るべき動機を形造つたのであります。然し、それは杞憂に終るでせう。なぜならば、現に欧洲の一角には、演劇の本質主義を標榜して、戯曲の価値に舞台の生命を託し、俳優と舞台監督
前へ 次へ
全50ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング