ニをして、その保つべき位置を保たしめ、そこに、演劇的効果の一切を創造しようとする運動が、頭をもたげてゐるのであります。それならば、演劇に於ける舞台監督とは何か。例によつて、これを明かにして置きたいと思ひます。
 その前に、かういふ議論について、一と通り考へて見ませう。それは、演劇は他の芸術と同じく一人の人間が一つの頭から創り出すべき芸術であつて、作者は同時に舞台監督であり俳優でなければならない。これがために、舞台の上の俳優は作者、即ち舞台監督の操縦によつて、その人物の生活のみを生活する「超人形」でなければならない。
 これは誠に傾聴すべき議論であります。然し、傑れた劇作家が、同時に俳優としての優れた素質を恵まれてゐるといふことは、頗る稀であります。稀であれば稀であつて、一向差支へないと云ふかも知れない。傑れた作者、傑れた俳優さへ、そんなにざらにはないのだと云ふかも知れません。かうなると、あくまでも理想論になりますが、実際、作者と俳優とは別々のものであつてもかまはないではありませんか。要はたゞ、両者が一体になるといふことで十分なのです。舞台監督でもさうです。作者が必ずしも舞台監督である必要はない。たゞ、舞台監督が作者の意図を完全に理解すればいゝのです。それが困難だといへばそれまで、そこは、もう程度の問題になります。
 舞台監督は、前に述べたやうに、作品の精神を尊重すると同時に、俳優の独創力を或る程度まで尊重しなくてはなりません。俳優を「超人形」にしてしまふことは、在来の脚本を上演する時には、考へものである。それならば、さういふ戯曲――と云つてわるければ――台本を、新しく作るより外はない。固より、此の論者の理想もそこにあるのです。
 舞台監督の権限が過大視された余弊は、俳優の技芸練磨に、殊に頭脳の啓発に甚だしい障碍を与へた。これは、当然の帰結と云ふ訳にはいかないでせうが、常に陥り易きことであります。舞台監督は、その職分から云へば俳優を指導、教育すべきものではないのであります。従つて、俳優を生徒扱ひにすべきものではないのであります。俳優の中には、舞台監督と同等の芸術的見識をもち、時に、それ以上の学識才能を備へてゐるものがあつても、ちつとも、かまはないのであります。俳優の技芸について、舞台監督が喙を容れ得る場合は、単に、それが舞台全体の調和を乱すと思惟した場合に限るので、脚
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