{の精神に合してゐるかゐないかについては、二人の意見は異り得るのであります。その場合、俳優は必ず舞台監督の意見に従はなければならないか、これは、もう相互の信頼程度によるもので、これを一概に定めてしまふことは危険を伴ふものであります。
 この機微な問題を解決するために舞台監督は、一座の首脳たる俳優で、その芸術的才能及び経験に於て、殊にその徳望に於て、他の俳優の畏敬する人物であることが最も便利なのであります。さもなければ、作者が舞台稽古に立ち会つて、舞台監督と俳優との異つた見解に判決を下すのがよろしい。俳優としての経験を実際に有つてゐない舞台監督が、その空虚な美学的理論乃至純客観的批判者の立場から、俳優の技芸を矯正することは、俳優の芸術、殊に演劇そのものに対する一種の冒涜であるとさへ云へます。
 然し、これは、俳優と称し得べき俳優に対する場合のことで、俳優自身がその技芸に対する十分の自信もなく、舞台監督もこれに対して相当の信頼を置き得ない場合は、これは別であります。舞台監督が教師の役目を兼ぬることは、一つの例外であると思はなければなりません。
 舞台監督の役目は、かう詮じつめれば甚だ軽いものゝやうに思はれますが、決してさうでない。たゞ、俳優対舞台監督を問題とする以外に、舞台全体の効果を規正する舞台監督の職能は正に、俳優が、人物の役を演じ活かすのと同様――少くとも――重大な職能であります。然し、重ねて云ひます。これは、如何なる意味に於ても、俳優の威信を傷けるものでなく、却つて俳優の優れた理解力、感受性と相期せずして一致すべき性質のものであつて、それは、俳優が常に、また自分自身の舞台監督でなければならないからです。
 舞台に於ける俳優以外の要素、これは舞台監督の想意に基いて実現されるものであります。この要素は、舞台装置機械化、更に演劇の綜合芸術説(後に述べます)に刺激されて、その役割が重大視されるやうになり、勢ひ舞台装飾の研究が近代演劇の著しい特色を示すものとなりました。従つて、これがまた、舞台監督万能主義を支へる有力な根柢となつたのであります。

       舞台装飾について

 この問題については、後段で詳しくお話しをするつもりでありますが、そして、此の問題が、恐らく近代演劇の様々な運動の骨子となつてゐるのでありますが、こゝではたゞ、演劇に於ける舞台装飾の実際的価値に
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