シャンは、相当にそれを活かしてゐる。のみならず、リュシャンの扮する役だけ見てゐれば、その人物の表現は恐らく批難の打ち処がない。が、しかし、その芝居が全体として、芸術的の感銘を与へる程度は、即ち、その演劇の芸術的価値は、何んと云つてもその脚本の価値によつて、根本的に左右されないわけに行かない。処で、彼が一度モリエールの『人間嫌ひ』に於て、主人公アルセストに扮するや、そのアルセストは、否『人間嫌ひ』といふ芝居は、「天下の見もの」となるのであります。
 それはやつぱり、リュシャン・ギイトリイが偉いからに相違ないのであります。それなら此のアルセストの役を、凡庸な俳優が演つたらどうなるか。そのアルセストは面白くない。『人間嫌ひ』といふ芝居は見るに堪へないものになる。が然し、こゝで考へなければならないことは、それがために、傑作『人間嫌ひ』は、飽くまでも傑作『人間嫌ひ』であることに変りはなく、天才モリエールは飽くまでも天才モリエールであることであります。
 此の事実から推しても、俳優の技芸は、それ自身に芸術たる要素を備へてゐるといふ考へは、間違つてゐるやうに思ひます。才能ある俳優が、或る役を十分に活かし、そして、その「巧さ」に於て、見物を感動させることに成功するとしても、その役の、即ち、その扮する人物の思想、性格、感情、それ以外にわれわれを惹きつける「或るもの」は、所謂「物真似師」の芸以上には出ない性質のものであつて、それを厳密な意味で、芸術と称することはできないのであります。
 こゝに一つ例外ともいふべきものは、俳優が脚本の価値を実際の価値以上に高め得ることであります。かうなると、俳優はもう単なる俳優ではなくして、作者の領域に足を踏み込んでゐる。一作者の脚本を演出するといふだけでなく、一作者の脚本を改訂又は補足して、それを演じてゐることになるのであります。この事の良し悪しは別として、俳優にとつて、かういふことの出来る才能を持ち合はせてゐることは、大きな強味であると云はなければなりません。然し、これはどの程度まで許さる可きことであるか、それは頗る機微な問題であつて、一々、その結果を見て判断するより外しかたがないのであります。そしてこれは、俳優としての才能、技芸には全く関係のない、特異な場合であることを知らなければなりません。
 従つて、どの俳優にも作者の才能を備へよと要求するこ
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