フ音楽家、今日までの舞踊家、今日までの舞台監督、それらのものを打つて一丸としたやうな舞台芸術家が、たとへ出るとしても、そして、その人間の頭一つから、一つの舞台が創造されるのはよいとしても、さういふ芸術家が生れるまで、今日の演劇はどうすればよいのですか。クレイグ自身も、さういふ理想論を唱道する傍ら、在来の脚本を上演してゐる。なるほど、彼の理論は、出来るだけ生かしてはゐる。然し、彼がシェクスピイヤなりミュッセなり、マアテルランクなりの戯曲を解釈するに当つて、聊か衒学的な独断が交つてはゐないでせうか。それらの作品の調子を一つ二つの色で示さうとするが如きは、甚だ児戯に類することであります。殊に、シェクスピイヤの人物、ミュッセの人物を演ずる俳優が、舞台監督の意志のみによつて動く人形であればいゝなどゝ云つても、それは一笑に附せらるべき暴言であります。
在来の脚本を上演する――即ち戯曲の存在を否定し得ない現在の状態に於て、演劇に何ものかを与へようとすれば、それは勢ひ演劇の本質を戯曲のうちに見出すより外はないのであります。戯曲とは、取りも直さず、劇的詩であります。主題と結構と文体――この三者の融合から生れる雰囲気の流れであります。言葉の幻象《イメージ》を透して感じ得る生命の躍動であります。戦慄の波であります。言葉――それは広義の言葉であります。直接間接の思想、意志、感情の表示であります。俳優の演伎一切は此の意味で、言葉の全的表現でなければなりません。
戯曲の精神を完全に舞台に表現する――このことは、新しい発見でも何んでもない。たゞ今日まで、その手段を誤つてゐた、少くとも消極的手段に甘んじてゐたのであります。間接手段に気を取られ過ぎてゐたのであります。
演劇に於ける「言葉」の位置と本領とを正しく認め、これに舞台の生命を託する――此の平凡な真理に気がついた先覚者は、ヴィユウ・コロンビエ座の首脳ジャック・コポオであります。
二
「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ主張――これは演劇の本質問題と密接な関係があります。
演劇の本質といふ問題については、次章に詳しく述べるつもりですが、現代の演劇運動を通じて、二つの大きな流れとも見るべきその一つに、演劇より「文学」を排除しようといふ傾向、言ひ換へれば、演劇の本質を感覚的要素の中に見出さうとする努力があることを注意しな
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