ッればなりません。
 この主張は美術、音楽などの近代的傾向から多少の示唆を受けてゐることは慥かである。即ち音楽で云へば、旋律派《メロヂスト》に対する交響楽派《シンフオニスト》の運動、美術、殊に絵画の方で云へば、古典派に対する印象派の運動が、それぞれ「音」乃至「色」そのものゝ感覚的効果に、音楽又は絵画の美的要素を求め、そこに本質的の独自性を認めさせようとした、その運動こそ音楽乃至絵画から「心理的要素」たる「詩的情緒」を排除して、音楽は音楽それ自身の美に、絵画は絵画それ自身の美に、それぞれ存在価値を見出さうとするものであります。
 こゝで演劇も亦音楽絵画の如く、「演劇それ自身の美」を独立させるために、その本質を感覚的要素の中に求め、「心理的要素」たる「言葉」、即ち「文学」を排除するのが当然だ、かう云ふ議論が生れたのであります。
 一寸面白い議論に違ひない。然し、この議論には矛盾がある。なぜならば若し演劇から「文学的要素」を排除し得たとしても、その所謂「感覚的要素」と称へるものは、果して、美術又は音楽の領域を犯してはゐないでせうか。
 こゝまで考へて来れば、演劇それ自身の美は、必ずしもこれらの論者の考へてゐるやうなものではないと云ふことが、わかるのであります。
 そこで、兎も角も、無言劇の完成と相俟つて、文学としての戯曲の上演も、立派な演劇の一部門であると云へる。のみならず、最も特色ある芸術としての演劇は、古来幾多の天才によつて立派な形式を与へられてゐる戯曲そのものゝ中に、「演劇それ自身の美」を見出すに如くはない、かういふ議論も、今日に於ては成立するのであります。
 この見地から、「演劇の本質は裸の舞台に於ても十分に表現し得べきものである」といふジャック・コポオの理論が生れてきたのであります。「一切の舞台的装飾、舞台的設備は、演劇の内容としては、全く第二義的のものである」と、彼は云ふのであります。
 言葉の関係から生じるあらゆる表現上の美しさから、劇的要素を見出す――これが古きが如くにして最も新しい舞台上の発見であることは前にも述べました。
 こゝから一つの戯曲の演出にまつはる一切の舞台的拘束を離れて、新しい「舞台上の言葉の研究」が始まるのであります。「或る台詞の最も正しい、唯一つの表現法」が俳優の工夫の対象となるのであります。二た通りしか云ひ方が無いと思はれてゐた一つの
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