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 要するに、これらの新らしい運動の動機とも云ふべきものは、写実主義の運動が排除した浪漫主義の「美」を、云ひかへれば「幻想の世界」を、写実主義的な眼で見直さうとする慾望であると云へます。これはパラドクサルな言ひ方かも知れませんが、もつと詳しく云へば、想像を裏づけるに観察を以てし、誇張の根柢に解剖を置かうとするのであります。そしてその窮極は、現実と夢とを超越した人生の神秘な存在を、最も綜合的に暗示しようとするのであります。
 こゝで、近代の演劇美学者乃至舞台革命家の主張を一々解説することは、恐らく無意義のやうに思はれます。何となれば、甲の理論は乙の理論の不備を補ひ、丙の理論は乙の理論を別な言葉で云ひ、丁の理論は丙の理論に注意線《アンダーライン》をを引いてゐるに過ぎないからであります。
 そして、結局舞台芸術家は、脚本の内容をそのまゝ舞台に再現することは不可能であるのみならず、それは却つて効果を減ずるものであるから、何よりも先づ、作者の理想を舞台上で「暗示」する手段を考へなければならないといふ点で一致してゐる。処でそれがためには――さあ、こゝで問題が分れるのであります。彼等の独創も亦、こゝにあると云へば云へるのであります。
 然しながら、理論と実行とは必ずしも一致しない。機械的装置の改良、絵画的表現の工夫、照明の絶対価値が論ぜられ、その点では殆んど奇蹟的な効果を挙げながら、演劇の生命は刻々に狭められつゝある事実をどうすることも出来ない。活動写真と舞踊劇《バレエ》の出現は、そしてその完成は、演劇に取つて大なる脅威であります。過去四十年間の舞台的革命は、演劇そのものゝ進化にどれだけの実績を残したか、この疑問は、真に演劇を愛し、演劇を理解するものゝ均しく抱いてゐる疑問であります。
 今日欧洲の劇壇を通じて、著しい傾向と見るべきは、「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ観念であります。演劇の伝統が論議され、その本質が探究されつゝあることであります。
 前回にも一寸述べたゴオヅン・クレイグの理論は、当時、既に時流を擢んでゝゐたと云はなければなりません。
 然しながら、これも前に述べた通り、クレイグの演劇本質論は、理想としては誠に立派な議論でありますが、現在に於ては甚だ危険な思想だと云はなければならない。何となれば、今日までの作者、今日までの俳優、今日までの舞台装飾家、今日まで
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