へば、それも、俳優を活かし得たか否かによつて決するものとみて差支へないのである。
そこで、文学としての戯曲の大衆性といふことが最後の問題として残るのであるが、これは、前にも述べた通り、取材の範囲、思想的内容とその盛り方、文体の難易等いろいろの条件があるとしても、もともと、戯曲は、小説などと比較して、観念の密度及び深さが興味の対象ではないから、一定の速度を以て推移し得るやう、作者が誘導的な叙述を用ひてゐる。解つた上で快感を味ふのは小説であるが、先づ快感を与へ、それに従つて解らせて行くといふ方法が用意されてゐる。且、戯曲はまた、小説と違ひ、常に、演説の如く、一個の群集に呼びかけ、若くは、詩の如く、無数の群集を動かすやうに書かれてある(アランの散文論による)。それゆゑ、総ての人によつて認められた原理(常識とまでは行かなくても)を先づ持ち出さなければならない。これだけでも、戯曲文学が、普遍的でなければならない証拠になるであらう。してみると、あとは、興味の持ち方、即ち、快感の種類といふ問題になるのだが、これは、戯曲を読むのと、それが舞台で演ぜられたのを観るのと余程わけが違ひ、才能の優れた俳優は
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