、如何なる戯曲の感情をも、一般の人の、即ち「大衆」の感性に愬へ得る能力を示すものである。
 結節を急げば、現在、各種の劇場に於いて上演せられつつある戯曲は、あらゆる意味に於て大衆の「要求」を満してはゐない。観劇の欲望と、余裕と、必要とをさへもつてゐる人々、娯楽と教養とのために演劇に親しまうとする最も健全なる大衆層、自発的に、人を誘つてでも、たまには少々の趣味的見栄にさへも劇場の切符を買はうとする頼もしい連中を、悉く拒避して、どこに大衆劇があるのであらう。
 新しい演劇の行くべき道は、今、明らかに示されてゐる。一方、研究的な、先駆的な演劇運動と併行して、いや、それよりも先に、演劇の真の「大衆性」を自覚した劇場事業が、何人の手によつてか、早晩企てられなければならぬであらう。その時が来て、はじめて、われわれは、現在の演劇的貧困から救はれるのだ。(一九三三・五)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
   1933(昭和8)年5月17、18、19日

前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング