た俳優でなければならない。
かう考へて来ると、現在の演劇で、正しい意味の「普遍性」をもつた演劇といふものがどこにあるだらう。善きにしろ悪しきにしろ、何れも、「特殊演劇」ばかりである。これで、まだ、その「特殊さ」がまちまちででもあれば、「大衆」は、それぞれ好むところに従つて、その足を向けるだらうが、その「特殊さ」が、不思議に、大同小異である。
「エノケン」の人気は、或は一時的であるかもわからぬが、これは、必ずしも「大衆」の求めてゐたもののすべてではなくて、ただ、これまでの芝居と、「半同半異」の程度に、その「特殊さ」を独立させたことが原因である。どの部分が異なつてゐるかといへば、第一に、「型」のないこと、第二に、「現代の空気」らしきものを吹き込んだこと、第三に、「頓智」の要素を少々交へてゐること、などである。
従つて、それだけ「間口が広く」なつた。あの「与太つぷり」は、一見、この一座の武器のやうであるが、私はさうは思はない。俳優の芸が進歩すれば、あれは不必要になるだらう。あれだけの機智が芸の中に現はれれば、それで見物は満足するのである。但し、さうなれば、今日の客が半分減ることは確かだ。
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