、「広さ」以外何か、「低さ」の感じをもたせることが、今日、演劇の前途を暗くしてゐるのである。その最も著るしい例は、「低く」さへあれば、「狭く」てもいいといふ認識不足が生れ、「狭い」ために多数の興味を惹かないことに気づかず、これでもまだ「高すぎる」のだと早合点をしてゐる向きがないでもない。
 現在の劇場で、見物が黙つてゐても見に来るといふのは、恐らく、一二の例外を除いては、全く考へられないことであらう。その原因は、何よりも、「狭さ」と「低さ」とにあるのである。仮に、大衆なるものがあるとしても、それは、演劇に今日の「愚劣さ」を望んでゐるのではなく、ただ、より「自分に近いもの」を望んでゐるだけだ。
 一方、新劇団と称する半職業団体は、さすがに、その伝統から、「低きもの」への限度をそれぞれに心得てゐるやうであるが、それでも、生活の必要に迫られて、「面白い」といふ別な云ひ廻しで、そろそろ、「大衆」に秋波を送りはじめてゐるが、これまた、「面白い」芝居とは、「調子をおろした」芝居だと勘違ひをし、或は賑やかな、或は凄まじい舞台を作り出すことにのみ汲々として、少しも「間口を拡げ」ることに気がつかない。依
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング